けものの祈り     10







 遠くから見ていた時は怖くはないのだろうかと恐怖を感じていたが、実践してみると案外どうということはなかった。
死への恐怖を感じられるだけの余裕がないだけなのかもしれないが、いつもの悶々苛々とした気分よりも、今こうしてがむしゃらに武を奮っている方がよほど落ち着く。
目の前に迫り来るのはすべて敵だ。
今の曹操軍のように、味方でありながら敵でもあるといった複雑な奴はいない。
襲い来る者はすべて葬り去りさえすれば、後は何も考えなくていい。
倒して倒して倒しまくり、そうしたらきっとこちらもやがては力尽きる。
もう曹操や歴戦の将たちに気を遣わせることもない。
優しくしてくれ気を遣ってくれることは、嬉しいと同時に苦しくもあった。
事情を知っているからだとわかっていても、彼らの不器用なまでの優しさが辛くなる時もあった。
こちらがとっとと思いを捨てていれば、彼らを困らせることもなかった。
いつまでもずるずると引きずっていたばかりに何年にも渡り気を遣わせ続け、不安にさせてしまった。
しかしそれら日々も今日で終わる。
思いを捨てるからではない。
思いを持つ者が消えてなくなるからだ。
やっとこの日が来たのだ。
やっと周囲の目から離れ、1人で行きたいところへ行ける。
は刃こぼれの激しい愛用の剣を地面に突き立てて殺した敵兵から奪い取った剣を掲げると、高らかに叫んだ。





「我こそは亡き典韋様が弟子、。殿を追いたくば、この私を倒してみろ!」




 勝手に弟子と名乗ってしまったので、向かった先では叱られるかもしれない。
しかしそれでも良かった。
叱られてでもなんででも再び典韋に会えるのであれば、にとってそれが至上の喜びだった。





































 退路のはずなのに、いやに静かだ。
曹操の首がすぐそこにあるとは誰もが知っている。
こちらが方々の体で逃げていることももちろん知っているだろう。
だからもっと騒々しく大地を鳴らしているとばかり思っていたが、戻る道には敵兵がいない。
追撃を諦めたとは考えにくい。
なぜ追ってこないのだ。
鎖鎌を構えたまま馬を走らせていた賈クは、どこまで走っても現れない孫権軍と静けさに不気味がっていた。
本隊に合流していない猛将がまだいただろうかと飛び出してきた先の面子を思い出してみるが、歴戦の将たちは皆曹操の元に揃っていた。
だから嫌な予感しかしないのだ。
自分が名前を認識している限り軍に戻っていなかったのはあの娘だけで、まだ彼女とはすれ違っていない。
敵兵がここまで追ってきていないというとは、もっと先で彼女が死闘を繰り広げているからだ。
そうであってほしいような違っていてほしいような、賈クは自分が何を考えているのかわからなくなっていた。
ただ今はとにかく早く、敵が湧き出てくる前に合流しなければならない。
ようやく見えてきた人だかりに、賈クの脳裏が過去の一瞬を映し出した。





『殿の元にゃあ行かせねえ! 悪来典韋たぁ俺のことよ!』
(やめろ、やめてくれ)

「殿の元へは何人たりとも決して通さない。殿をお守りするのが私の務め」
(やめろ、見せるな)


『死んでもここから動かねえ!』「死んでもここから動かない!」
「やめろ典韋殿!」





 いつかも同じ光景を、違うところから見ていた。
あの時は早く倒れてほしくて、けれどもいつまでも倒れないことにやきもきしていた。
たった1人で何ができると嘯き、たった1人に千の兵が手こずり先へ進めなかったことに苛立っていた。
1人の力を見せつけられた、思い知らされた時だった。
あの時、放り出された者がどんな景色を見ていたかなんて今日の今まで考えたこともなかった。
振り返ることすらできない、しなかった理由もわかった。
がずっと苦しみ、そしてこちらを憎み恨み続けている本当の理由もやっと―――それでも少しだけだろうが―――、わかった気がした。
赤い戦袍の群れで飛んで舞い兵をなぎ倒す闇色の風には、まさに典韋が乗り移っていた。
その人間離れした動きに、賈クは駆け寄ることもできず立ち竦んでしまった。







「たった1人に何を怯んでいる! 早く倒さぬか!」
「し、しかしこいつ、やたら強くて恐ろ・・・ぎゃあ!」
「・・・この兵を指揮するのは、お前か」
「い、射よ! 弓で射てしまえば良い! 弓矢隊、前へ出よ!」





 そうだ、あの時も歩兵では叶わなかったから弓を射かけた。
猛り狂う猛獣は一斉に放たれた無数の矢を全身に浴び、それでも立ち続けた。
死していたのに、立っていた。
槍兵に変わり前へと進み出た弓矢隊が矢をつがえ、狙いをたった1人に定める。
これから先どうなるのか知っている。
以前、そうなることを望んで指揮を執ったからだ。
だが今はどうしたい?
このまま見ているだけではわかりきった結末が見られるだけだ。
それでいいのか?
もしそうだとしたら、俺は何のためにここまで馬を走らせてきた?
死を見届けるため?
確かに彼女はずっと死ぬことを望んでいたようだが、本当に今ここで彼女の願いを叶えさせてやっていいのか?
叶えさせてやることが罪滅ぼしになるのか?
違う。
賈クはゆっくりと首を横に振ると、そいつは俺の柄じゃあないと呟いた。
にとことんまで嫌われ抜かれることをやり通す。それが賈文和の生き様だ。





「悪いね典韋殿。あんたの元にははまだやれない」
『いるかよ、あんなお転婆のガキ』




 そうだ、いくら典韋でもあそこまで手のつけられないお転婆娘には手を焼くに違いない。
供を連れず走ったので誰もいないはずなのに、どんと背中を押された気がした。
鎖鎌を握る手にも、自分ではない何か別の力を感じる。
欲しいのは命、ただそれだけで良かった。





!!」





 叫んだと同時に、弓矢がに向かって放たれる。
次々と飛来する矢を叩き落としていたが、防ぎきれなかった矢がの胸に迫る。
捉えた、捕まえた。
思いきり鎖を引き寄せた先に巻きついていた体を抱き留め、手早く馬に乗せ上げる。
もっと暴れ喚くかと思っていたが、馬上のは憑き物が落ちたかのように大人しくぴくりともしない。
まるで本当に、彼女を死なせまいと先程まで典韋が憑いていたかのようだ。
賈クは馬に鞭をくれると、突然消えた名もなき猛将に戸惑いを隠せない孫権軍の追手から駆け去った。








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