けものの祈り 9
重い鎧を着込んでいなくて良かった。
水を吸って多少体は重たいが、沈む前に船に這い上がれて良かった。
濡れた服は気持ち悪いが、船だったものを燃やし尽くす炎で直に乾くだろうから斬られたよりもましだと思うことにする。
は荒い呼吸をどうにか整えると、落下した先の崖を見上げた。
軍師のくせに身軽で、軍師ならではの底知れない恐ろしさを持ったあの男の姿はもうない。
大船団を焼き払い、曹操が描く天下統一の路を打ち砕いた奴が許せなかった。
だから張遼が去った後も単身ホウ統と対峙し、そしてあっさりとかわされ長江へと突っ込んだ。
結局何もできなかった。
1人では何もできないという当たり前のことが悔しかった。
ホウ統はもう追えない。
回りの兵は皆息絶えているようだし、ここに留まっていても敵に見つかるだけだ。
今はとにかく一刻も早く主軍と合流し、曹操の退路を確保しなければならない。
主軍に戻れば曹操だけではなく許チョや賈クもいるだろうし、きっと張遼も愛しい姫君を連れ帰っているはずだ。
そこに自分が加わっても大した戦力にはならないが、盾になることくらいはできる。
は燃え盛る船へと向き直ると、大きく息を吸った。
炎のおかげで孫権軍も迂闊に近寄れないらしい。
見つけられる前に対岸へ渡らなければ命はない。
背を屈め走り出したは、突如天井から降ってきた船に行く手を遮られ舌打ちした。
「これでは前へ進めない・・・」
対岸への最短距離は塞がれ、退く道も閉ざされた。
川へ飛び込み泳げばあるいは向かえそうだが、泳ぎに自信はそれほどない。
浮いているところを射られたらひとたまりもない。
しかしこのままここに留まっていては前にも後にも進めない。
こんな所では死ねない。
死ぬならば大切な人を守ってからだ。
は意を決すると、再び水中へと身を躍らせた。
残存の兵は思った以上に少なかった。
曹操はほうぼうの体で集まった将兵らを見渡し、険しい表情を浮かべた。
誰かが嫌な予感がすると呟いていた東南の風だったが、まさか予感が的中することになるとは思いもしなかった。
前線から離脱してきた馴染みのある顔を見ればいくらか安心できるが、この後の退路にも何が待っているかわからないので油断はできない。
それに、ここで帰還を待っているわけにもいかない。
曹操は主だった将たちが参上したのを見届けると、困難であろう退路を進むべく手を挙げた。
これだけ無様に負けたのは久し振りだった。
宛城で典韋を喪った時以来か。
そう独りごちた曹操は、不意に彼によく懐き今もなお慕い続けている子犬のような娘を思い出し後方を顧みた。
確かあれは賈クの下へつけたはず。
初めこそ絶対に嫌だと言い張り命をも狙おうとしていたが、今は大人しく彼に従っているという。
は多少我は強いが物の道理は理解しようとするいい子だ。
そして、上官の名には逆らわない忠実な兵だ。
賈クがに何を命じたのかはわからない。
しかし今視界に2人の姿がないということは即ち、彼らはまだ船内にいる可能性があるということだ。
何かと抜け目のない賈クだけならばへろりとした顔で帰陣を果たしそうだが、はそうはいかない。
には危ういところがある。
今まではそういった危うさを大なり小なり感じ取っていた古株の将たちがそれとなくを支えていたが、今は違う。
賈クがの危うさを知っているとは思えない。
賈クに対しては常に虚勢を張り、あるいは心を完全に閉ざしてしまっているであろうが、彼に心の内をさらけ出すわけがない。
賈クはに何を命じたのだ。
悶々とした思いを抱きながら退路を走っていた曹操は、騒然となった後列を鋭く睨みつけた。
「騒ぐな! 何事だ!」
「・・・殿、張文遠ただいま戻りました・・・」
「おお。無事であったか、張遼」
炎と乱戦の中を決心の奮戦で潜り抜けてきたであろう、全身に返り血を浴びた張遼が曹操の前へ来るなり平伏する。
申し訳ございません、申し訳ございませんと何度も謝罪の言葉を口にする張遼の顔を上げさせ、彼と共にいるはずの愛娘がいないことに不安を覚えながらも何があったと尋ねる。
公主が。
そう呟いた張遼に曹操は一度天を仰ぎ、すぐに張遼の背を撫でた。
「良い。この混戦じゃ、はぐれるのも致し方あるまい。わしはお主の帰還を嬉しく思っている」
「ですが・・・!」
「あれも武人の娘。覚悟などとうにできていたであろう」
「・・・私は公主の命を受けホウ統の後を追っていました。追い詰めることはできたのですが、首を取る前に船が・・・」
「ホウ統が我が船団を繋げたことが炎の勢いを強めておった。さすがはわしの娘よ」
「申し訳ございません! 私自ら公主の護衛に就きたいと言っておきながらのこの仕儀、もし公主の御身に何かあれば・・・!」
悔やみ落ち込む張遼の姿はとても痛々しい。
歴戦の猛将が、たった1人の娘の死にこれほど嘆き悲しむとは思いもしなかった。
実の娘を喪ったこちらよりも悲しんでいるようにも見える。
彼はよほど娘を深く愛していたのだ。
曹操は張遼を従えると、改めて周囲を見渡し口を開いた。
「この地にもはや用はない。皆、撤退だ!」
再び行軍を始めた曹操に続き、張遼も馬に跨る。
冗談じゃない。
ぼそりとどこかからそう聞こえたかと思えば、馬が高くいななき歩を止める。
奇襲ではないと思うが、それにしては凄まじい殺気だ。
思わず身構えた張遼は、茂みからぬっと現れた賈クに目を見開いた。
「賈ク殿、かような所におられたのか!」
「あんた、ホウ統といたのか」
「いかにも、しかし逃げられてしまった」
「そんなもんはどうでもいい。あいつは、あれはどうした」
「あいつ? あれとは・・・?」
「あれ・・・、うちの部下のさ! 俺は彼女にホウ統を見張れと命令した。会わなかったのかと訊いてるんだけどねえ」
「・・・ああ、あの娘か。いた。私と共にホウ統を追い、私が奴の元を去った後も留まっていたようだが・・・。すまない、以後のことは知らぬ」
私はあの時は殿と公主のことしか考えられなかったのだ。
そう悲しげに呟く張遼から目を逸らすと、賈クは舌打ちした。
張遼に対してではなく、自分自身に対して腹が立っていた。
軍よりも自身よりもなによりも曹操のことを真っ先に思うだから、ひょっとしたらこちらを飛び抜け主の元へ馳せ参じていると期待していた。
そうあってほしいと願っていた。
曹操の傍におらず、共にいたはずの張遼の元にもおらず、上官にあたるこちらの元へも戻ってきていないが今いるのは、考えたくはないがあそこしか思いつかない。
下手な軍師でなくても誰でもすぐにわかる。
はまだ、沈みゆく船に取り残されている。
やっと死に場所を見つけた。
きっとはそう思っている。
あれの思い通りにさせてなるものか。
賈クは退路を急ぐ兵たちに背を向けると馬上の人となった。
どこへ行く賈ク殿、よもやそなた。
張遼の問いかけに、賈クはご明察と答えるとにやりと笑った。
「賈文和、追撃の孫権軍を足止めする策を閃き反転したと殿にお伝え願えるかな」
「待たれよ賈ク殿! 私も共に!」
「今のあんたの役目は、今度は殿を守ることだ。なぁに心配しなさんな。すぐ戻る、必ずや」
生きたままのを引きずってでも担いででも、必ず戻らなければならない。
それが仇にできる唯一の責任の取り方だ。
手のかかる部下を持つと大変だ。
賈クはそう呟くと、再び燃える長江へと戻っていった。
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