けものの祈り 8
やはり張遼は前線で武を奮う方が似合っている。
広くて大きな背中は、敵陣で舞う方がより大きく強く見える。
女の中でも小柄な部類に入るにとって張遼の背中は、典韋のそれと同じくらい大きくて立派で逞しいものだった。
馬術に長け、蛮勇ではない勇気溢れる将士たちのみで編成される張遼の騎馬隊。
配属されたいと思っても決して叶わない、選ばれし迅雷の軍。
かつて董卓に仕えていたという点では同じなのに、どうして我が上官とこうまで違うのかにはわからなかった。
そして、張遼のような勇猛果敢な将が深窓の公主のような、言っては悪いが面白味のなさそうな女を愛する理由もわからなかった。
「賈ク殿はホウ統殿について何と言っておられた?」
「とにかくよく見ておけ、とだけ・・・」
「左様か・・・」
「あの、公主はどのようにおっしゃっていたのですか?」
「とにかく追えとの仰せだった。、そなたは確か身のこなしが軽かったな」
「いささか自信があります」
「ならば背後から回り挟撃に備えてくれ。飛び出す機はそなたに任せる」
「よろしいのですか?」
「戦場では誰もが戦力として数えられる。しかし叶わぬとなればすぐに退き、賈ク殿に事の次第を伝え策を仰いでくれ」
と行動を共にしたことはないが、彼女の人となりは周囲から聞いている。
小柄で身軽であることを活かした、奇襲に長けた遊撃特化の兵だという。
戦法だけ聞けば楽進の配下にいても良さそうだが、賈クが彼らよりも一足早くに目をつけたということなのだろう。
張遼は崖上へ隠れたを見届けると、ようやく見つけたホウ統の前へと躍り出た。
戦列から離れ、なぜこのような所におられる。
そう尋ねた張遼の言葉にホウ統はにいと笑った、ような気がした。
「それはこっちも訊きたいねえ。姫君のお守りをほったらかしにしてていいのかい、張遼殿」
「公主のご命令だ。ホウ統殿、今すぐ陣にお戻りいただきたい」
「あの公主も不思議なお方だねぇ。油断しなくて正解だったよ」
「なに?」
「誰が何人束になってあっしを狙おうとこれから起こることはどうにも変えられんさ。・・・さて、そろそろ大河が燃えるよ」
ホウ統の言葉が終わるか終わらないかのうちに船団から激しい音が聞こえ、張遼と茂みに隠れていたは本陣を顧みた。
帰るべき場所が炎に包まれている。
視界が炎の赤でいっぱいだ。
まさか賈クは、こうなることを危惧していたのだろうか。
危惧していた賈クは安全なところにいるのだろうか。
いや、そもそもあそこにまだ安全地帯があるのだろうか。
はホウ統と怒りの籠った声で叫ぶ張遼の殺気にはっと我に返り、崖下の2人へと視線を戻した。
下にはまだ2人いると思っていたが、炎の音とともに迸った光に紛れたのかホウ統の姿はない。
張遼はこのままどこかへ消えたホウ統を追いかけるつもりなのだろうか。
戦の難しい駆け引きはわからないが、張遼が彼を深追いするのはやめた方がいいと思う。
彼の本当の任務は今や苦境の真っ只中にいるであろう公主の護衛なのだ。
主の娘が戦死あるいは捕縛などあっていいわけがない。
ここは自分に任せて、守るべき人の元へ早く向かってほしい。
の願いが通じたのか、ホウ統の始末を諦めた張遼が猛然と炎渦巻く船団へと駆け去る。
あの去り方、張遼様は私のことなどすっかり忘れておいでのようだ。
は息を潜めると、茂み深くへ身を隠しながら移動を始めた。
賈クは場合によってはホウ統を討って良いと言った。
味方である彼を討つ気は初めこそなかったが、堂々と味方を裏切った彼は今や立派な敵だ。
曹操の覇道の前に立ちはだかる者は誰であっても許さない。
は音もなく崖から飛び降りると、ホウ統に向かって武器を構えた。
「お前をこのまま逃がすわけにはいかない。ここで果ててもらう」
「威勢のいいお嬢ちゃんだ。あんたもあの姫君の差し金・・・ではなさそうだねえ。賈ク殿と言ったところかな」
「賈ク様はお前を討てと命じられた。私はお前を決して許さない」
「そりゃあ結構だが、こうしてる間にもあんたの上官様は炎にやられてるよ。助けに戻らなくていいのかい」
「構うものか。私はあれが昔から大嫌いだ」
それに、あの男がたかだか炎に巻かれた程度で果てるとも思わない。
むしろ不安なのは曹操や張遼の方だが、自分が向かったところで事態が劇的に好転するとも考えにくい。
どんなに典韋を慕い憧れていても典韋にはなれないのだ。
だったら自分は自分に与えられた任務を忠実にこなしていく。
ホウ統が小さく笑い声をあげ、ひょいとを飛び越える。
逃げるな、私と戦え!
そう叫びホウ統を追いかけたは、ホウ統が消えた崖下が真っ黒な長江だと気付く前に水に向かって飛び込んだ。
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