けものの祈り 7
また戦だ。
それもかなり大きな戦になるらしい。
しかし、もしかしたら今回の戦が最後の大きな戦いになるかもしれないという。
戦いの日々が終わるのは民にとっても荒廃した大地にとってもいいことだと思う。
悪いことなんて何もない。
血は流れない方がいいに決まっている。
戦争さえなければ、家族も典韋も仲間たちも死なずに済んだのだ。
曹操様は、戦の世を終わらせようとして下さっている。
この方に拾われ、従ってきて良かった。
は軍議での内容を話している上官の言葉を話半分に聞き流しながら、来たるべき安息の世を夢見ていた。
すべてが終わったら、曹操たちが作ってくれた家族の墓参りに行こうと思う。
典韋にも曹操の偉業を話して聞かせたいし、死に別れた仲間たちの墓前にも酒と花を供えたい。
戦が終わったら本当に何もかもから解放されるのだろうか。
平穏な日々になれば、胸でどす黒く渦巻いている賈クへの憎悪の思いも綺麗さっぱりなくなるのだろうか。
そんなわけはないだろう。
たとえ平和になったとしても、この胸の思いはどちらかが死ぬまで消えはしない。
殺してやりたい、倒さなきゃ。
そうぼそりと呟いたは、賈クに声をかけられ顔を上げた。
「んー、思案に暮れるのは俺の話を聞いた後にしてくれるかな」
「申し訳ありません」
「なぁに、調子悪いなら無理はしない方がいい。もっとも、次の戦いは万全でない奴は連れて行けないがね」
「私はどこも悪くありません」
「そりゃあ良かった。あんたも大事な戦力で、俺の策の要だ。欠けるとなったらこっちが困る」
「・・・・・・」
よくもまあ次から次にぺらぺらと嘘が言えるものだ。
奴の下についてから、重大な任務を与えられた験しは一度もない。
いつも遊撃で、策に係わったことなどまったくない。
それほどまでに使いにくい、あるいは使いたくないのならばとっとと余所の隊へ動かしてほしい。
飼い殺しにすることこそが奴の策なのかもしれない。
は賈クの才能こそは認めていたが、それ以外はすべてを信用していなかった。
「、あんたには後で話がある。残っておいてくれ」
「承知しました」
副官たちを差し置いて、ただの一兵卒に過ぎない自分にいったい何の用があるというのだろうか。
ひょっとして異動だろうか。
夏侯惇の元へ戻れるのだろうか。
それとも、見かねた曹仁が引き取ってくれると申し出てくれたのだろうか。
この際李典の元でもいい、楽進の配下になり一番槍を目指すのも悪くない。
張遼や徐晃の下もすごく憧れる。
誠実で果敢で、それでいて思慮深い彼ら2人をは尊敬していた。
「んー、見れば見るほど小柄だ」
「・・・は?」
「貶してるんじゃない、うってつけだと思っている。あんたの身のこなしを見込んで重要な任務を与える」
「・・・・・・」
「先頃軍に加わったホウ統を知ってるかい? 水鏡門下生として有名なかなりの切れ者なんだが」
「徐庶殿と同門でしょうか」
「そうそう。ホウ統殿を見ていてほしいんだがね」
「承知しました」
「理由は訊かない、か」
「私は賈ク様の才は認めておりますので、そのお言葉に間違いはないと考えています」
「才だけ、か・・・。くれぐれも慎重にやってくれ。場合によっては討ってもいい」
「味方を討てと?」
「なぁに、俺の命令と言えば誰もが納得する。色々な意味でね」
汚れ役は性に合っている。
万一のことがあってもは同志を討つことができないから、その時は当初の予定通りこちらが手を下せばいい。
珍しく曹操は何も疑っていないが、大戦前にホウ統が参上したのは都合が良すぎる。
きな臭いのだ。
賈クはにもう一度気を付けろと念押しすると、窓から見える着々と完成しつつある巨大な軍船を見つめ眉をしかめた。
と呼ばれ、ぐらつく船内でゆっくりと振り返る。
船同士を鎖で繋ぎ合わせているので当初よりはかなりましになったが、それでも船上は慣れない。
は歩み寄ってきた張遼に拱手すると、何でしょうかとやや上ずった声で尋ねた。
張遼と話すのは少し緊張する。
戦場で誰よりも派手に勇ましく立ち回る張遼には、いついかなる時でも見惚れる。
うちの地味上官に比べたらと何度も比較しては、上官に絶望した。
孫権軍と流浪の劉備連合軍を破り中原はおろか江南の地まで手中に収めようとしている今回の戦では、なぜだか張遼が後詰に回っている。
こういう大きな戦いでこそ張遼の機動力や突破力がいかんなく発揮されると思うのだが、やはり船上なのが影響するのだろうか。
噂では張遼が自ら望んで後詰を望んだとも聞く。
よもや彼が怯えたというわけではあるまい。
張遼は怪訝な表情を浮かべているの前でこほんと咳払いすると、口を開いた。
「私は母親に見えるか?」
「・・・・・・え?」
「・・・いや、いささか不躾であったか。は母というものをどのように考えている?」
「私の母は私が幼い頃に家族もろとも殺されてしまったので、よくわかりません」
「・・・辛いことを訊いてしまった、すまない」
「いや、そのようなことは! 殿に助けていただいてからは軍の皆様が父であり母であり、兄でした。強く勇ましく、けれども時々少しだけ優しいのが母でしょうか。
死んだ母は・・・、温かかった気がします、たぶん」
予期せぬ質問に面喰いながらも、少しでも役に立てるようにと懸命に答える。
よりにもよって一番縁遠い家族、しかも母親について訊かれるとは思いもしなかった。
には家族との思い出もあまりない。
死別したのが本当に幼かったしきょうだいがたくさんいて母を独占することができなかったから、母に抱かれていた温もりすらどのようなものだったのかわからない。
曹操に拾われてからも彼の数多いる妻たちに育てられはせず、こちらが望んだのか常にむさ苦しい男だらけの軍の中を駆け回っていた。
張遼はなぜ母のことなど尋ねたのだろうか。
は依然として難しげな表情を浮かべている張遼を見上げ、おずおずと声をかけた。
「張遼様はいったいなぜ、母のことを?」
「実は、私は母のようだと言われたのだ」
「それはいったい、どこの命知らずが? 張遼様は勇猛果敢な猛将、母に見えたことは一度もありません」
「そうだろう、そのはずなのだ。しかしあの方は紛れもなく子の私を母のようだと仰せになられた。もやはり、かのお方を変わり者と思うか?」
「あの方・・・」
張遼が視線を向けた先を見やり、はもう一度張遼を顧みた。
『あのお方』のことはちらとだけ耳にしたことがある。
虫も殺せぬ顔をして無表情で敵を屠る変わり者と名高い公主だ。
歳はおそらくはこちらの方が上だが、彼女からは歳に似合わぬ老成した雰囲気を感じる。
張遼が志願して後詰に回ったのは彼女のためか。
さては張遼様、公主を。
そう考えたは少しだけ面白くなくなり、ふいと目を逸らした。
「張遼様はあのお方のために今回の戦の手柄を得ないと決めたのですか?」
「貴人を守ることも重要なこと。慣れぬ土地、慣れぬ船上での戦いだ。何が起こるかわかるまい」
「それはそうですが・・・」
「それにあのお方は不思議なことを仰せになられた。自らの元を離れ、ホウ統殿の元へ急げと言う」
「・・・・・・賈ク様も、私の同じことを指示されました。場合によっては討てとも」
曹操の信頼厚かった郭嘉を病で亡くし、我が子房とまで言わしめた荀彧とは政策上の行き違いから疎遠となっている今の曹操軍の中で、軍師賈クの影響力は高まるばかりだ。
変わり者の公主までもが気に掛けるホウ統にはきっと何か裏があるのだろう。
張遼とは顔を見合わせると、ほぼ先頭の船の舳先に立つホウ統の元へ駆け出した。
分岐に戻る