けものの祈り 6
美人の憂い顔は見栄えがするが、猛将のそれはお世辞にも綺麗とは言えない。
少なくとも立派な髭を蓄え、戦場では鬼神のごとき働きをする男が浮かべて気持ち良くなる表情ではない。
気分が参っている時に妙なものを見てしまった。
賈クはくるりと踵を返すと、元来た道へ足を踏み出そうとした。
賈ク殿か?
そう問いかけられ立ち止まってしまった自分は、意外とお人好しだと思う。
賈クは自分自身に辟易しながら振り返ると、やあやあと答え片手を上げた。
「誰かと思えば張遼殿。んー、変わったお顔をしておいでだ」
「やはりそうか・・・」
「気付いてらっしゃる」
「先程から水面に映る私の顔はどうも女々しい。しかし、今はこれしかできぬのだ」
「張遼殿ともあろう方が、いったい誰がそんな顔にさせたのやら」
「それは・・・、言えぬ・・・・・・」
「あははあ、誰を相手にそう言ってるのやら。相手は女と見たがどうかな」
「さすがは軍師であられる。いや、それとも賈ク殿も同じ顔をなさっておいでだからか」
「ほう?」
指摘するまで気付かなかった。
賈クは張遼の隣に並ぶと、水面に自身の辛気臭い顔を映した。
思わず笑いが出てしまうほど物憂げな顔をしていた。
まさかこの俺が、命を狙われている相手を思い詰めてこうまで参っているとは。
など取るに足らないと高を括っていたが、彼女も伊達にこちらを殺そうと鍛練を重ねてきたわけではないらしい。
は確実にこちらを追い詰め、追い込んでいた。
賈クは張遼に向き直るとにやりと笑い頷いた。
「こっちはどうあがいたって無駄なんだけどねえ、参った参った」
「賈ク殿の策をもってしても無理とは」
「完全に嫌われる。万に一つも心なんか開かれるものか」
「なぜそのような者を?」
「策士ってのは難問にぶつかることにわくわくするものなのさ。関羽や張飛と刃を交えて血が滾るってのと似てるんじゃないかね」
「確かに。・・・私が想う方は、私のことをおそらくはどうとも思っておられない」
「んー、そもそも相手は張遼殿のことはご存知なのかね」
「言葉は幾度か。しかし、その際に手酷く叱ってしまった」
「怖かったろうな、お嬢さん」
泣かれたりしたんじゃないかねと笑いながら尋ねる賈クに、憮然として違うと即答する。
いっそ泣いてもらった方が良かったかもしれないと今では思うが、泣かれるどころかけろりとした顔で冗談まで言われたから調子が狂い始めたのだ。
賈クはいい、賈クが羨ましい。
たとえ向けられる感情が負のものであったとしても、彼女の心には少なくとも自分が住んでいる。
おそらくこちらが思う彼女の心には自分はいないのだ。
何の認識もされていない相手に懸想して妻に迎えようとして、空しくなる時もある。
賈クが好きになったのはいったいどんな娘なのだろうか。
張遼は策でも巡らせているのか、眉根を寄せている賈クに向かって口を開いた。
「賈ク殿が人を想うことがあるとは」
「俺だって気になる奴は当然いるさ。んー、まあ、今回は相手を好いても惚れてもなくて手の内を知りたいってとこだが」
「敵・・・か?」
「とんでもない。誰よりも殿を一番に考え軍のために命を惜しまず励む忠義の塊だねえ。もっとも、俺はその態度が不安でもあるが」
「将の鑑のようなものだ。よもや相手は男か」
「あははあ、張遼殿は冗談も言えるのかい。女さ、顔色ひとつ変えず、目的のためならば一時の自我を殺すことすら厭わない鋼鉄の心を持った可愛げも色気もどこにもないれっきとした女」
可愛げがなくなったのは自分のせいだ。
色気がないのも自分のせいだ。
自分がいる限りは本来の姿に戻らない、戻れない。
無理に心をこじ開けようとしてもそれは同じだ、下手をすれば彼女が自死を選びかねない。
いっそが男であれば、厳しく接するだけ接することができた。
彼女が女だから、つかんだ腕が細くて力も弱かったから手厳しくすることを躊躇い、意識してしまうのだ。
「あれが男だったら良かったとよく思うよ、最近」
「左様か・・・」
賈クの悩みは海よりも深く山よりも高いようだ。
気になる女が男であれば良かったなど考えたことは一度もない。
少しばかり、いや、かなり変わった姫君ではあるが、彼女が彼女の兄君のように冷酷な男でなくて良かったと常に思っている。
賈クは張遼の憐れむような視線に気付くことなく、今も執務室で黙々と筆を執っているであろうへと思いを馳せ、ため息をついた。
軍にはたくさんの父がいる。
曹仁や夏侯惇も早くに父や家族を亡くし天涯孤独の身となったの父だ。
父たちの前では少しだけ甘えてもいい気がする。
は庭園で花の手入れをしていた曹仁の武骨な手を見下ろすと、隣にしゃがみ込み花に手を添えた。
「おお、良きところに。、その花をこちらへ植え替えてくれぬか」
「どうしてですか?」
「大きく育ち苦しげにしておろう。このままではどの花も窮屈で育つまい。ゆえに間を空けてやるのだ」
「曹仁様はどうして花にお詳しいのですか?」
「花はどこにでも咲く。人馬が踏み荒らした大地にさえ根付く力強きものだ。易々とできることではない」
「花が、強い・・・」
「そうだ。どれ、自分は水を汲んでくるゆえここは任せて良いかな」
「はい」
曹仁は、戦場で武を奮う猛将とは思えないほど心の根の優しい男だ。
それとなく気を配り、たまに花やお菓子といったお土産を持ってきてくれる優しく穏やかな彼のことをは大好きだった。
今もさして重くはないのに水汲みは自分で買って出て、こちらには負担をかけないようにしてくれる。
曹仁は昔から嫌味ではない女の子扱いをしてくれた。
それが少しだけ恥ずかしくて嬉しくて、今でもその思いは変わっていない。
は可憐に咲く花を眺め頬を緩めると、可愛いと呟いた。
もしかしたら、あの悲劇がなければ今頃は宮殿の奥で姫君のような花を愛でる人生を送っていたかもしれない。
負けん気は強かった自身にお姫様が務まるとは思えないが、別の、誰かを憎み恨まずとも良い生き方もあったのかと思うと今の憎しみにまみれた人生がどす黒く見える。
道を選んだのは自分だ。
もしもあの時典韋が死なず今も生きていたら、ひょっとしたら年頃の自分は典韋のお嫁さんになると駄々を捏ね、また曹操たちを困らせていたかもしれない。
そのくらい大好きで大切で、だからそれなりに時が経った今でも彼を殺した奴が憎たらしくてたまらない。
奴を憎んだところで典韋が帰ってくるわけではないとずっと昔にわかっていても、だ。
「私は、花みたいに綺麗な生き方はできなかったな・・・」
敵うことのない、殺してやりたいけれども殺すこともできない男を憎みながらしか生きることができない人生が空しい。
憎しみを捨てられる前に進むことができない、結局あの日から何ひとつとして変わっていない自身が恨めしい。
花に触れていたの指が震え、花もわずかに揺れる。
どす黒い感情が伝わったのか、元気を失くした花に水がかけられの指もじんわりと濡れた。
「辛さを背負い生きる道を選んだのは、そなただ。辛くなったか、やはり」
「・・・当たり前です。あんな、あんな男の下で働くなんて耐えられない!」
「しかし耐えているのがで、それがそなたの強さであり弱さだ。、たまには自分と組み手でもせぬか」
「・・・思いきり、いきます」
厳しすぎる苦手な稽古に耐えられず、いつも泣きついていた先は曹仁の胸であり背中だった。
自分はを守る盾でもあるのですと本気か冗談か曹操たちの前に立ちはだかり庇ってくれていた日が懐かしい。
曹操を困らせたくないから我慢していて、でも我慢がばれて嫌なことや辛いことを吐き出させてくれる避難場所が曹仁の元だった。
は曹仁に飛びついた。
我慢していたのか涙が流れることはなかったが、わああああんと腹の底から叫んだ。
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