けものの祈り     5







 曹操軍には賈クや郭嘉がいるので、軍師という存在については特段珍しくは思わない。
むしろ、それなりの規模の軍を率いているにもかかわらず策士を持たない主の方が不思議に思う。
劉備軍は昔からずっと軍師がいなかった。
だから常に予測不可能な行動を取り、その度に曹操に潰走させられてきた。
長く策士を得ず、また、彼らの使い方もろくに知らなさそうな劉備には曹操に勝るものはない。
流れに流れようやく落ち着いた荊州牧劉表の庇護の下新野に腰を据えたとしても、劉備は昔と同じで何も得ていないはずだ。
だから賈クは戦闘前にああ言ったのだ。
人を疑い裏を読むことを生業としているにもかかわらず何たる失態だ、賈文和よ。
は曹仁が敷いた八門金鎖の陣を意図も易々と攻略し、更に火計まで発動させてきた劉備軍に茂みの中で舌打ちしていた。
今戦っている劉備軍はかつて知った劉備軍ではない。
太く強靭な胴体こそあれど頭を持たなかった盲目の巨人が、今はしっかりとした頭を乗せ戦場を荒らし回っている。
ここ最近はご無沙汰だったがさすがは歴戦の将軍だ、敗残兵をまとめ新たな陣を組む様子には見惚れてしまう。
曹仁様に比べうちの上官様と言えばだ。
策士の癖に大した策も打たず戦闘に入り、挙句攻め立てられている状況に口元がにやついている。
笑っていられる場合か。
は賈クの前まで迫ってきていた劉備軍の背後に茂みから飛び出すと、相手が気付くよりも先に息の根を止めた。




「あははあ、いたのかい」
「遊撃をする場所がなくなりました」
「それで今は援護か。んー、察しのいい部下を持って俺は幸せ者だ」
「賈ク様、ご指示を」
「あんたは撤退、それだけだ」
「・・・は?」
「だからお家に帰れと言った。今回は見事にやられた。んー、まさかあの劉備軍にいたなんてこりゃ面白い」
「恐れながら賈ク様はいかがなさるのですか」
「俺はもう少しここで見たいものがある。軍師の顔くらい拝ませていただきたいね」
「死にますよ、賈ク様」
「そりゃああんたにとっては願ったり叶ったりってわけだ。あんたは俺を殺したい。けど自分の力じゃ俺を倒せない。都合良く死んでもらったら嬉しいだろ、仇としては」





 は上官の命令には逆らわない忠実な部下だ。
それに任務においては私情を一切持ち込まない氷の心を持っている。
本当はあまり我を殺させたくないのだが、今日だけ殺してもらえば、ひょっとしたら明日からはすべてが解放されて元のに戻れるかもしれない。
を戻る鍵はずっとこちらが持っているのだ。
賈クは筆架叉をだらりとぶら下げたままじっとこちらを見据えているに早くと促した。
ふざけんな。
ぼそりとそう聞こえた瞬間、賈クは地面に押し倒され筆架叉を向けられていた。




「願ったり叶ったり? 何を言っている? 私がいつ、お前なんか殺されてしまえと思った? お前を殺すのは他の誰でもなくこの私だ、だからお前は私に殺されるまで生きなければならない」
「んー・・・、ようやくおでましか」
「何だと?」
「こっちがあんたの本物だろ。あんた、どうして仇の下にいてあんな冷静でいられる? そうしろっていうのが殿のご命令か?」
「私は殿に救われた身。私個人の感情でこれ以上殿にご迷惑はかけられない。お前が死ねばそれは、憎いお前の才を買い取り立てた殿に対する不忠だ。
 だからお前は死んではならない、私に殺されるその日まで」





 私たちは敵ではなく、殿に命を捧げ覇道を支えるために戦っているのだ。
きっぱりとそう言いきったが、賈クの顔の横に懐から取り出した短剣を突き立て体を起こす。
殿は私が務めます、早くお退き下さいと先程の激昂などなかったかのように平静な口調で指示を仰ぐは、紛れもなく本物の忠義の臣だ。
凛々しく逞しく、そしてやはり不器用な子だ。
本当は誰よりもこちらが憎くて殺したくてたまらないのに、同じ軍にいるというだけで生きろと言わなければならない。
死ぬわけにいくか、ここで死ねば遺体が彼女の手によってどんな形にされるかわかったものではない。
賈クはの前に立つと、俺からはぐれず撤退と高らかに宣言した。


































 共に新野で潰走してから、が気になって仕方がない。
一度の戦いに敗れたからといっては何も変わらず、昨日も今日も表情を変えることなく黙々と机に向かっている。
劉備軍に突如として湧いた軍師は徐庶というらしい。
過去になかなかやんちゃをしてきたらしいが、それでも策士として活躍しこちらを破った才は見事なものだと思う。
ああいう男は劉備軍にはもったいない、できればこちらに迎えたい。
才ある者をこよなく愛し収集癖のある曹操は当然のようにそう口にし、今は徐庶を下すために策を企てている。
あれが来たところで役に立つのかねえ。
そう呟くと、賈クはどう思うと呼びかけた。




「劉備の元から無理に連れて来られた徐庶が、殿に献策すると思うかね」
「献策せずとも良いのです、殿は」
「んー、それはどういうことかな」
「たとえその者が殿に策を進言することなくとも、劉備の元から軍師を取り上げたことに変わりありません。もっとも、劉備は新たな軍師を迎えたと聞きますが」
「あははあ、あんた意外と物知りだね。大したもんだ」





 褒めたところでにこりとも笑わない。
いつもと違う額当てをしていたことが珍しくて言及しても眉を潜められる。
は軍務に係わることに対しては部下として真面目に答えるが、それ以外については基本的に無視をする。
無駄口を叩かないともいえるが、最近の観察が好きになった身としては少々どころかかなり面白くない。
どうにかしての心を動かしたい。
しかし女心についてはとんと知識がない。
誰かに相談しようにも病床の郭嘉には訊きにくいし、曹操以外の将たちは皆女心について自分と同じかそれ以上に理解していなさそうだ。
そもそも、訊いた直後にお前はあいつに係わるなと言われる気がする。
こうなったら上官命令で彼女を副官にでも取り立てようか。
いかにしてとの間にある心の壁を破壊しようか悩み中庭へ出た賈クは、湖面を見下ろし同じように深いため息をついている猛将を発見した。







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