恋人は天使か悪魔          終









 日もとっくに暮れ虫の鳴き声しか聞こえないはずの庭から響いた物音に、は鋭い声で誰何した。
武将として名を挙げている馬家に盗みに入る輩などいないだろうが、誰であろうと侵入者を見過ごすわけにはいかなかった。





「・・・私だ、殿・・・・・・」
「・・・まさ、か」
「趙子龍だ。話がしたい、殿と」




 がさりと音を立て茂みの中から現れた若武者の姿を見て、は固まった。
なぜここにと尋ねようとして、つい先程彼が話をしたいと言っていたのを思い出す。
真っ直ぐこちらに歩み寄ってくる趙雲を無言で見つめていただったが、廊下の向こう側からどうかしたのかと尋ねる馬岱の声を聞き我に返った。
趙雲を今、家の者に会わせるわけにはいかない。
自分と直接会いにくい何らかの事情があるから、彼はこうして普段の真面目さなどかなぐり捨ててわざわざ忍んでやって来たのだ。
は趙雲の腕を掴み自室へ引きずり込むと、そのまま積み上げている葛篭の裏に押し込めた。




殿、何を・・・」
「いいから、少しの間大人しくしていて下さい」




 は趙雲にきつく言いつけると、部屋の外に出た。
男、おそらくは馬岱と言葉を交わしている声が聞こえる。
不審者ならとっくに叫んでるわよと冗談を飛ばすに安心したのか、足音が遠ざかっていく。
馬岱が完全に引っ込んだのか、は部屋に戻ると趙雲殿と小さく声をかけた。




「・・・いきなりいらっしゃらないで下さい。兄上たち追い出すの面倒なんですから」
「それは申し訳ないことをしてしまった。だが、どうしても会って話をしたかったのだ」
「・・・そう、ですか」





 は固い口調で答えると、趙雲とやや距離を置いて座り込んだ。
何を話しに来たのかさっぱり見当がつかなかった。
こちとら未だに心の整理がついておらず、顔を合わせるのすら辛くて怖くて引き篭もっていたというのに。
やはり別れを切り出したいのだろうか。
そうならば、今すぐにでもきっぱりと言い渡してほしい。
そちらの方がぐずぐずと悩まずに済むし、落ち込んだ気分も治りやすい気さえする。




殿」
「・・・・・・何でしょうか」
「先日は酷いことをしてしまった・・・。手を上げてしまって、すまなかった・・・」
「・・・いいんです。あれは私が滅茶苦茶なことしたんですから、趙雲殿がお怒りになるのも当然です」
「いいや、私は私自身に苛立っていたのだ。あなたの身に危険が迫っていることに気付かず、心身疲れ果てているあなたに優しい言葉ひとつかけてやれない不器用さに」





 本当にすまなかったと頭を下げられ、は少なからず戸惑った。
謝るべきは、何も告げることなく戦場へ赴き多大なる心配をかけたこちらの方だった。
叱られ、嫌われるのは当然だった。
趙雲は人として正しい感情表現をしただけなのだ。
は頭を下げたままの趙雲を見て、溢れる涙を止めることができなくなった。
こんなに優しい人に迷惑をかけて困らせて苦しめて、なんて私は馬鹿でおろかなのだろう。
えぐえぐと嗚咽を始めたに気が付いた趙雲は、慌てて顔を上げた。
泣かせるほどに酷いことだったのか、あれは。
傷つけるだけに止まらず、愛しい人に悲しみの涙を流させるという男として最低最悪の頂点を極めてしまったと勘違いした趙雲は、震える声で女性の名を呼んだ。
あぁ、名を呼ばれるのも嫌かもしれない。
思えば、ここ最近は彼女の感情を逆撫ですることしかやってなかった気がする。
趙雲は女性の前では非力な己を恥じ、またもや自己嫌悪に陥りかけた。
これでは祝言など夢のまた夢だ。





「・・・わ、私、趙雲殿に嫌われたんじゃないかって・・・、ずっと、ずっと怖かった・・・・・・」
「嫌いになるはずがない! むしろ、私の方が嫌われたのではと・・・!」
「や、優しすぎるんです・・・・・・。私がいけないのに、謝らなきゃいけないのは私なのに・・・」
「頼む、泣かないでくれ殿。私はあなたを泣かせたくはないのだ、笑っていてほしいのだ・・・・・・」





 趙雲は、子どもや女性を泣き止ませる方法を知らない。
だから、彼女に何をしてやれるのかわからなかった。
目の前で肩を震わせ泣き続ける娘が愛おしくてたまらない。
趙雲は恐る恐るの方に手を伸ばした。
拒まれるかもしれないと不安を抱きつつも、そっと抱き締める。
久々に腕の中に閉じ込めた彼女の体は思っていたよりもずっと細く、儚かった。
強く抱けば壊れてしまいそうな肩や背だった。
ほんの少し力を加えただけで折れかねないようなこの体が、戦場へ行ったというのか。
少しどころかだいぶ力を込めて平手打ちしてしまったのか。
趙雲はの体の震えを止めるように、極めて慎重に腕に力を込めた。
腕に伝わる温もりに、彼女は生涯かけて守り抜くべき人だと確信した。





「私は、自分で思っている以上に不器用で、上手く愛情を伝えることもできないだろう・・・。
 だが、本当に、私は殿を大切に想っているのだ・・・。それだけは忘れないでほしい・・・」
「・・・・・・私、もう無茶しません。ずっと、ずうっと趙雲殿に愛されてたいです」
「今はまだと思っていたが・・・。時が経ったら、私の妻として傍にいてほしいと思っているのです・・・。・・・受け入れてくれるだろうか」





 こくり。の頭が上下に揺れ、嬉しいですと密やかな声で囁かれる。
趙雲はの目尻に溜まった涙を指で拭うと、ほんの少しくしゃくしゃになって紅く色づいた顔に唇を寄せた。











































 数日前までのどんよりとした表情や気分はどこへやったのか。
馬超と馬岱は、急に完全復活を果たしたを前に、首を捻ることしかできなかった。




「本当にもういいのか。もう少し安静にしていた方がいいんじゃないか?」
「平気平気! そう何日も寝込んでたらもったいないってば。それに今日は、関平殿と董先生のお別れの日なの」
「董奉殿・・・でしたか?」
「そう。荊州とか揚州の方へ修行の旅なんだって」





 兵を癒すべき立場にある者が卒倒するとは、従軍医として情けない。
卒倒した挙句弟子に庇われたと聞かされすっかり自信を喪失してしまった董奉は、改めて修業の旅へと出ることにした。
慣れ親しんだ地を離れるのは寂しいが、様々な医学を身につけたいという知的欲求が上回ったためだった。
董奉は恋人らしい立派な若武者と見送りに現れたを笑顔で見つめていた。
若武者はどう見ても趙雲である。
あの馬超将軍の妹といい恋人が趙雲といい、本当にとんでもない娘を弟子にしていたものだ。
何の予備知識も与えずにある日こちらにを寄越してきた諸葛亮には、言いたいことがたくさんあった。
最後に診察した時とは比べ物にならないくらいに晴れやかな表情を浮かべている彼女も、医師には向いていない。
隣に立つ恋人を支え励ますのが、一番性に合っているように思われた。





「先生、向こうでもお元気で。たくさんお世話になったから何かお礼をしたいんですけど、荷物になっちゃいますよね・・・」
「気持ちだけで充分だ。・・・ああそうだ、私への礼の代わりに杏子の木を植えてほしい。あれはいい薬になる」
「はい!」
「趙雲様と仲良くするのだぞ、ではな」





 ゆったりと歩き始めた師を見送ると、と趙雲はその足で関平の元を訪れた。
晴れやかな顔をしている。
新たな任務に気合が入っているようだった。




殿と趙雲殿の仲が戻ってほっとした。・・・心配していたのだ、星彩と」
「元々悪くなっていなかったのだが、関平?」
「そ、そうだったのですか!?」




 拙者はてっきりと言いかけた関平に、星彩が関平と呼び発言を遮る。
滅多な事を言うのではないと小声で説教を受けている姿がなんとも微笑ましい。
は別れの直前まで2人の時間を楽しんでいる関平を星彩を見て、笑みを浮かべた。




「離れてしまっても・・・、無茶はしないで。私はいつも、関平を信じてるから」
「・・・拙者も、星彩のことはいつも忘れない」





 離れていても、同じ場所にいなくても心はいつも共に。
星彩たちの別れを少し遠い所から眺めていたは、趙雲を見上げた。
共に戦場を賭けることは絶対にないだろう。
武人とただの市民とでは、日々の生活でもほとんど接点はない。
しかし、彼を想わない日は1日だってない。





「ねぇ趙雲殿、ほんとに私をいつの日か妻として迎えてくれますか?」
「私が嘘を言うと? 他から奪ってでも必ずや」
「じゃあ、私が誰もが羨むような素敵な女性になるまで死んじゃ駄目ですよ? あと、いい加減ちゃんと兄上たちと話し合わないと」
「あなたを残して逝くものか。・・・そうだな、いずれは私の義兄となる人だ、強引にでも納得させねば」
「決闘はやめて下さいね、岱兄上に背後から毒矢射られます」
「・・・の家は本当に何でも起こるな」




 何が起きるかわからない彼女だから、これからもしっかりと見守っていかなければ。
趙雲は自分が遂に彼女のことを念願の呼び捨てで呼べていたことに気付かず、一人意気込んだ。
一方、何の前触れもなくいきなり呼び名に変化が生じたは、口をもごもごとさせながら俯いた。




「どうした? どこか体調が優れぬのか?」
「ち、違いますよ・・・。・・・その、私も趙雲殿のこと、子龍様って呼んでいいですか?」
「・・ああ、もちろんだ!」




 遠回りをしてすれ違い、勘違いをし合ったばかりに離れかけていた2人の仲は、以前よりも更にぴたりと密になっていた。









  ー完ー







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