恋人は天使か悪魔          8









 飛び交う弓矢と火花を散らす刃と刃のぶつかり合いの中、はひたすら息を潜めていた。
いくら戦場に慣れているとはいえ、こんなに間近で激戦に遭遇するのは初めてだった。
涼州から落ち延びる時はいつだって、兄や従兄が猛烈な勢いで切り崩した中を疾走していたのだ。
徒歩でうろちょろしている今とは状況がまるで違った。
今までは守られる側だったが、今は怪我人を守るべき立場にあった。
はいつの間にやら散り散りになり逃げ出してしまった他の衛生兵よりも、遥かに職務に対する意識だけは高かった。





「・・・ごめん兄上、岱兄上、趙雲殿・・・。私、たぶん死ぬ」




 ここは死の覚悟の1つや2つはしておくべきだろう。
せっかく好きな人ができて、その人と楽しい青春時代を送ろうと思っていたのに。
訳のわからない言いがかりと陰謀(だと信じきっている)に巻き込まれ、家族にも告げずひっそりと散る自分を許してほしい。
こんなことなら先程送り出した元涼州兵に髪の一房でも託しておくべきだった。
は詰所の隅に身を潜め、人生の後悔した点を挙げ始めた。




(衛生兵として死ぬのかな、女として死ぬのかな、それとも馬超の妹として死ぬのかな・・・)





 は必死の思いで隅まで引きずってきた、今や負傷者となった董医師の腕に布を巻きつけ、足元に転がる短槍を引き寄せた。
































 全軍突撃の命が下り、馬超は前線へと馬を駆けさせ始めていた。
久々の戦争に血が昂ぶる。
やはり自分は戦場に生きる男なのだ。
馬超は、馬上から繰り出す斧が槍の餌食となっていく曹操軍の兵を見て改めて思った。





「・・・まっ、馬超様っ!!」




 死体と攻撃を見事な手綱捌きでかわしてくる騎兵が声を上げた。
いい馬の御し方だと思いながら兵の接近を待つ。
駆け寄ってきた兵は全身返り血と自分の血で真っ赤だった。





「ひ、姫様をお助け下さい!」
「姫・・・? なんだ、戦場にありながらも夢見心地なのか?」
「姫様・・・・・・、お嬢様と同じ事を仰らないで下さい・・・!」





 そういえば涼州にいた頃は妹は姫と呼ばれていたなと、馬超は随分と懐かしい昔を思い出した。
しかしなぜ今、この状況でが出てくる?
妙な胸騒ぎがして、馬超は馬岱を手招きした。





「おい、どういうことだ。手短に話せ」
「お、お嬢様が衛生兵としてここにいらっしゃるんです・・・! 離れられないからと、東の詰所に置き去りに・・・・・・!」
「・・・お前は・・・・・・、・・・・・・そうか、他の将軍の下で働いているのか」
「従兄上、を助けに行きます。このままでは間違いなくあの子は死にます」





 今にも走り出しそうな馬岱の腕を馬超は引き掴んだ。
なぜ止めるのだと血相を変えて睨みつけてくる従弟に、待てと言い放つ。
冷静沈着で俺の暴走を止めるのが売りではなかったのかとからかいたくなった。
馬超は、軽口が叩けそうなほどに落ち着いていた。





「従兄上・・・!」
「岱、お前はこのまま兵を率いて本陣へ向かえ。俺があれを取り返しに行く」
「ですが・・・!!」
「将たる者、たとえ不測の事態が起きようと動じてはならん。いいか、俺の軍はたった今からお前に預けた。一軍の将として戦を勝利に導いてみろ」





 馬超は情報をもたらした兵を見下ろした。
他の将軍の下に歩兵としているのはもったいないくらいに、優れた馬術を身につけていた。
今度我が隊に、騎兵として来てほしいと頼んでみようか。





は1人でいたか?」
「いえ、上司と思われる従軍医と共に。ですが、とても腕が立つようには見えません。・・・むしろ、お嬢様の武芸を恃みにしていたような・・・」
「あれが武器を取ったことがないことくらいお前も知っているだろう。なぜそのような虚言が」





 全速力で馬を走らせる2人の前に、敵兵が立ち塞がる。
馬超は兵を自身の後ろにぴったりと張り付かせると、槍を水平に構えた。
1人ずつを細やかに相手にしている時間はなかった。
すうっと大きく深呼吸して、馬腹を強く蹴る。
猛烈な勢いで敵兵の群れに突撃した直後、馬超の槍が戦場を切り裂いた。
兵にとっては懐かしい、幾重にも張り巡らされた包囲網を突破する時に毎度のごとくなされていた錦馬超の猛攻だった。
馬超が通った後は死体か瀕死の敵兵しか残らないのだ。
まさか、劉備軍に編入された今でも見ることができるとは思わなかった。
涼州の牙は、人の下についた今でも鋭き研ぎ澄まされたままだった。






「馬孟起ここにあり!! 命が惜しい奴は今すぐここから立ち去れ!!」





 日常生活では騒音公害としか認定されない大音声も、戦場ではどんな銅鑼の音よりも勇ましく、そして兵たちを奮い立たせる。
馬超の鬼気迫る覇気に敵兵が怯えを見せた隙を狙い、2騎は眼前の詰所に飛び込んだ。































 は短槍を滅茶苦茶に振り回していた。
もう逃げられなかった。捕まるまでの時間を稼いでいるだけだった。
それでもいずれは捕まるか殺される。
わかりきった結末に反抗しているのだが、やったところで無駄だということも充分にわかっていた。





「来ないで来ないで来ないで来ないで来んな馬鹿!!」





 壁に背中をぴたりとつけて、目の前の敵兵3人の接近を拒むため力の限り槍を振るう。
太刀筋も何もなく乱舞し続ける凶器に命を懸けていた。
これがなかったら、とっくに剣でざっくり斬られている。







「強情な女め、とっとと死ねい!!」
「うわっ・・・!」





 がきんと短槍が弾かれ、は思わず尻餅をついた。
ついで繰り出される突きには、すんでのところで体を捻り回避する。
もう一度同じことをやってみろと言われてもできない、奇跡的な芸当だった。
奇跡だから一度しかできない。
手負いの董医師を庇うため、は無意識のうちに己が身を盾として投げ出した。
投げ出した瞬間我に返り、あぁもう死んだなと確信した。
殺すならひと思いに殺してほしい。
背中からでも、どうせ貫かれるならば心臓を貫いてほしい。
背中に不意なる重みが加えられた。
貫かれるはずだった敵兵の剣が、音を立てて地面に転がる。
何が起こったのかわからないまま、今度はひょいと担がれた。
何だ、殺されると思ったら拉致なのか、捕まえられたのか。
そっちの方が勘弁願いたい、誰が曹操の下になんて行くかと暴れていたら、動くな馬鹿と怒られる。
やかましい戦場においてもはっきりと聞き取れる大きさを持つ声の主を、は1人しか知らなかった。







「あ、兄上・・・!?」
「久しいな。・・・詳しいことは戦いが終わってからだ、お前を安全な場所まで送ってやる」
「あ・・・っ、この人・・・、董先生も連れてって・・・」
「そうだな、お前が庇った人物を見捨てるなど正義に反するからな」





 声は大きくてもどこか落ち着いている兄を、はちらりと見やった。
やはり怒っているのだろうか。
勝手に戦場に行ったことを褒める兄もいないだろうが、こうも静かだと不安が増大する。
馬超はどこかから拾ってきた馬にを乗せ、自身の後ろに失神したままの董医師を乗せると、従者のようにくっついている兵に声をかけた。
よくよく見ると、先程助けた元涼州兵ではないか。
はおそらくは馬超を呼びに行ったであろう彼にありがとうと告げると、疲れきった体に鞭打って馬を駆けさせ始めた。
ほとんど何も考えずに兄の背中を追いかける。
完全な自軍領域なのか、流れ矢も飛んでこない。
やがて本陣にたどり着くと、馬超は董医師を下ろしすぐにまた馬上の人となった。
兄の視線の先が自分ではなくて曹操軍を向いていることに、は気付いた。
もう遅いかもしれなかったが、言わないよりも心が安らかになる。








「ご武運をお祈りしてるね、兄上」
「任せておけ。・・・いいか、絶対にここから動くな。諸葛亮殿に何を言われてもだ」
「え・・・?」





 なんで知ってるの。の問いは、砂煙を上げ戦場へと舞い戻っていく馬蹄にかき消された。








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