恋人は天使か悪魔 9
いつだってそうだ。
馬岱は急遽任された軍の指揮を執りながら、ぼそりと呟いた。
冷静を装っていても、のことになると他のことは放り出す。
曹操の首級を上げる絶好の機会である今回も、あっさりと大功を投げ出して妹救出のために反転した。
素晴らしい兄妹愛だが、一軍の将としてはいかがなものだろう。
馬岱は、己の指揮にも機敏に動く馬超軍を見やり独りごちた。
「これは・・・、馬岱殿では?」
「趙雲殿」
戦場にもよく映える白馬に乗った趙雲が馬を寄せてきた。
厄介な人が来たと内心舌打ちするが、許すも許さないも従妹の恋人で、なおかつ上位に当たる将軍に無礼は働けない。
馬岱は近寄ってきた趙雲に静かに会釈を返した。
「馬超殿の姿がないようだが・・・?」
「別件で少々・・・」
「何かあったのか、奇襲か、伏兵か?」
「大したことではありません、ご心配なく」
馬岱のそっけない返答に趙雲は苦笑した。
馬超不在の間の兵の指揮に集中しているのだろう。
馬超軍の形態がどうなっているのか詳しくはわからないが、よく統率が取れているように見受けられる。
馬超の補佐でなくとも、その気になれば一軍の将になれる器は持っているのだと趙雲は評価した。
別件で外している馬超の行方も気になるが、もしかしたら単に馬岱に指揮を任せるための口実なのかもしれない。
「戻ったぞ、岱」
「従兄上! ・・・いかがでしたか?」
「・・・無事だ、だが予感は当たっていた」
「ではやはり・・・!!」
馬岱の視線をまっすぐ受けた馬超は静かに頷いた。
険しい表情になる馬岱に落ち着けと声をかける。
何が『やはり』で誰が『無事』なのか趙雲は知る由もないのだが、彼にも漠然と誰のことを指しているのかはわかる気がした。
もしも彼女のことだとしたら、それは自分にも大いに関係してくる。
そう信じていた。
「・・・2人は殿のことを言っているのではないか?」
「違うな」
の名を聞き微妙に馬超たちの表情に変化があったことを、趙雲は見逃さなかった。
戦場で尋ねるのはいかがなものかと思う。
しかし、趙雲は尋ねずにはいられなかった。
「隠さないでくれ馬超殿。あなたともあろう人が戦場で安易に持ち場を離れるとは思えない」
「そうかな、俺はそうは思わんが」
「しらばっくれるのはやめてくれ馬超殿。・・・なぜ私に報せてくれない」
「・・・たとえ趙雲殿の予感が当たっていようとも」
馬超は趙雲に背を向けつつ口を開いた。
能面のような、何の感情も見せない顔に恐れすら感じる。
趙雲は、この正義の男がどの段階で感情を爆発させるのかわからなくなってきた。
が絡むと高確率で熱く血を滾らせるとばかり思っていたが、勘違いだったのか。
それともやはり、今回の胸騒ぎは絡みのことではなかったのか。
趙雲は馬超の言葉の続きを待った。
少しでいい、彼女と係り合いを持たせてくれ。
趙雲は知らず知らずのうちに祈っていた。
「・・・これは我が家の問題だ」
「それは・・・・・・、私は「岱、待たせたな。曹操の首を取りに行くぞ!」
部外者である自分は余計な口を挟んだり足と突っ込むな。
暗に拒絶されたという事実に、趙雲は立ち竦んだ。
遠くで勝鬨が聞こえる。
は気絶したままの董医師を介抱しつつ、戦の終わりを感じていた。
兄たちは無事だろうか。
かなり出遅れただろうが、ほかの将軍方に負けないくらいの戦功は立てられただろうか。
念願の曹操の首は取れただろうか。
本陣周辺が騒がしくなる。
兵たちが帰還してきたのだろう。
居場所がなくなった気分になり、居心地が悪くなってきた。
兄上もよりにもよってこんな所に置いていくだなんて酷すぎる。
ここなら星彩や関平に見つかるかもしれないというのに。
困ったものだと溜息をついていると、誰かに名を呼ばれた気がした。
辺りを見回すが、声の主の特定はできない。
「・・・! どうしてここに・・・・・・」
「星彩、関平殿・・・?」
「ずっと心配していたの・・・。あなたが急にいなくなったから・・・・・・」
「馬超殿も馬岱殿も拙者たちを尋ねて回っていたんだが、まさか戦場にいたとは・・・」
どうしてこんな所にいるのと尋ねられ、は苦笑いした。
諸葛亮殿に無理矢理連れて来られたとは言えない。
かといって望んで来たと言ってもまず信じてもらえないだろうし、ここは言葉を濁すしかなかった。
「がここにいること、馬超殿や趙雲殿はご存知なの?」
「兄上は知ってる、ここまで連れて来てくれたから・・・。でも、趙雲殿は・・・」
できることならば、知られることなくこの場を立ち去りたかった。
知られたら怒られるに決まっている。
いや、叱られるだけでは済まずに間違いなく嫌われる。
生きて戦場から戻ってはこれたが、課題は山積みだった。
考えるだけでも億劫になってくる。
星彩と関平は顔を見合わせた。
彼女がここにいる理由がまったくわからなかった。
怪我はないようだが心身ともに疲れきっているようだし、よほどの激戦地に配属されていたのだろう。
いつも元気で明るい彼女を知っているからこそ、今日のは見ていて痛々しかった。
とにかく今は彼女を休ませなくては。
「! あぁ、無事だったんですね!」
「岱兄上・・・」
星彩と関平は、風のような速さで横切っていった物体を見抜けなかった。
何者かと思いの方を見やると、馬岱がぎゅうっと抱き締めている。
いつも冷静沈着で、直情型の馬超を御すことが多い馬岱がである。
見知った人物の変貌ぶりには驚くばかりである。
「こんな所にいたんですね・・・。大丈夫、安心して下さい。あなたがここにいる事情は私も従兄上も大体わかっています。従兄上が今も諸葛亮殿と話をしています」
「・・・なんで、どこまで知ってんの・・・?」
怯えの色を見せたを、馬岱はもう一度抱き締めた。
心なしか痩せた気がする。
慣れないというか、人生でやるはずのない仕事をさせた疲れから来たのだろう。
は久々に感じる家族の温もりにほっとしていた。
もう、この温かさを味わえないのはないかと思った時もあった。
兄たちは怒っていないのだろうか。
訊くのは怖かったが、訊かずにはいられなかった。
「ほんとに心配させてごめんなさい・・・。・・・怒ってないの?」
「怒る? まさか、私たちの怒りの対象があなたのわけありません」
「・・・私ね、実は「殿!!」
兄でも従兄でもない人物から大声で名を呼ばれ、の顔が引きつった。
大股で歩み寄ってくる彼が、今は怖くてたまらない。
星彩と関平は気を利かせて、馬岱は渋々といった様子で離れると趙雲の動向に注目した。
趙雲は座り込んで自分を見つめている恋人を見下ろした。
疲労の色が濃いのは見てすぐにわかった。
いつも見せてくれる勝気な生き生きとした瞳も、今日ばかりはさすがに曇っている。
ここまで追い詰められているのになぜ自分を頼らない。
言いようのない怒りと悲しみが趙雲の胸に宿った。
ぱしぃんと乾いた音が陣中に響き渡る。
「な・・・、に何をするんですか趙雲殿!」
趙雲の足元には、赤く腫れた片頬を押さえ黙って俯いているがいた。
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