公主様の秘め事 10
淡々と言葉を発するに、凌統は戸惑っていた。
なぜ彼女はあんなことを言うのだろうか。
彼女を捕らえて益があるというのか。
たかが1人の女を得たからといって、喜ぶのは誰もいないのでは。
「・・・どういうことだよ」
「わたくしの名は曹。父は曹孟徳でございます。・・・公績様は、公主としてのわたくしをご所望でございますか?」
「ばっかじゃないの? ・・・俺はが何者なのか今初めて知ったっての。俺が一緒に来てくれと頼んだのはが姫君だったからじゃない。を愛してるからさ」
愛していると言われ、は思わず武器を落としかけた。
どうしてこんな状況で言ってくれるのか。
その言葉にどれだけ悩み、そして戦意を削がれることか。
あぁ、やはりわたくしはこの方を愛しく思っているのだ。
は改めて己の気持ちを知った。
そして、とてつもなく悲しくなった。
今日ほど、己が身分を恨めしく思ったことはなかった。
「。が俺のことどう思ってるかなんて知らないけど、俺は今でもを愛してる。本当に、が公主であることを隠して連れて帰りたいくらいに」
凌統はが見せた一瞬の隙に付け込み肉迫した。
慌てて抗戦しようと試みはするが、男女の力の差がある以上それも容易ではない。
この子は本来ならば戦場に立つ必要などないのだ。
凌統はやむを得ず出陣したの体を慮り、極力優しく武器を持つ手を掴んだ。
「離して下さい! わたくしとあなたは敵、戦に私情を挟むのは下策というものです!」
「生憎と俺は聖人君子じゃないんでね。時には自分の欲望にも忠実になる」
「・・・これ以上、あなたを憎み恨めしく思いたくないのです!」
「だったら孫策様の部下である俺じゃなくて、ただの凌公績として俺を見てくれよ! それとも、は俺そのものが嫌いなのかい!?」
「そのようなこと・・・!!」
はそこまで言うと顔を伏せた。
もう、彼の顔を見ていられなかった。
愛していますと告げればどれだけ心が軽くなるだろうか。
何度もその誘惑に負けそうになった。
言ってしまえば楽になるとはわかっていた。
しかし、言ったところでどうなるというのだろう。
大人しく連れて行かれ、公主だと知られ殺されてしまうのか。
数日前と今とでは状況がまるで違うのだ。
今のにとって、彼と共に行くという選択肢はなかった。
「俺はが何であろうと守るし、愛すって誓える。だから下手なことをせずに俺に任せてくれ!」
「・・・もうやめて!! ・・・わたくしがいつ、あなたを愛していると言いましたか。いつ、共に行きたいと告げましたか。
・・・己の願望のみを押しつけるのはおやめ下さい。敵を愚弄するにもほどがあります」
「・・・本気で言ってんの?」
凌統の、の手を掴む力が強くなった。
これでいいとは張り裂けそうになる心に言い聞かせた、
こうして愛情のかけらも抱いていないと言えば、彼は間違いなく自分に幻滅してくれるだろう。
そうした方が彼にとってもいいのだ。
この世界に女はごまんといると言うのに、何がおかしくて決して結ばれない定めにある女を愛する必要があるのか。
今は彼の心も誇りも傷つけてしまうだろうが、それがやがては彼のためになる。
叶わぬ思い、届かぬ願望などばっさりと切り捨ててしまえばいい。
こんなに素晴らしい男なのだ、いつの日か、自分よりももっと素敵な女性と出逢える日も来るに違いない。
「・・・本気も何も、まさかご自分が慕われているとでもお思いに? なんとお幸せな方でございましょう」
「あぁ、俺は幸せだったさ。右も左もわからないやたらとでかい都で、心通わす可愛い女の子ができて。
だけど、はそうは思ってなかったのかい。俺は、宮殿の奥深くに住まうお姫様の暇潰しに過ぎなかったってことかい?」
凌統がひたりとの目を見据えた。
どんな感情の変化も逃すまいと見つめてくる瞳の力に屈しそうになる。
心の迷いと口からのでまかせが、全て暴かれてしまいそうだった。
ここで負けるわけにはいかなかった。
敵ではあるが、未来が明るく開けているであろう愛する男の障害になどなりたくなかった。
「あなたと過ごした日々は楽しゅうございました。・・・離すか捕らえるか殺すかしていただけませんか? 直に兵もやってまいり・・・!?」
の言葉が途切れた。
抱き寄せられるのは3回目だった。
加減を知らない男の両腕は、の華奢な体を容赦なく締めつけた。
強く押し付けられた左胸からは、駆け足のように早い鼓動が聞こえる。
そして頭上からは、ぶつぶつと呟いている声が降ってきた。
「何をなさ・・・」
「本当に俺にはが必要なんだ・・・。たとえが俺のことを憎んでようと、俺はそれでもを愛してるんだ・・・。なんでわかんないんだよ・・・」
「それは・・・・・・。・・・いやっ、今すぐわたくしを離して下さい・・・!」
は己の武器に目をやり、小さく悲鳴を上げた。
身動きが取れないために固定されたままのの獲物は、確実に凌統の上腕を掠めていた。
凌統の腕は今や、孫策軍の象徴である真紅の戦袍とは違う赤に染まっていた。
「お願いです、私から離れて・・・!」
「嫌だね。・・・が俺の言うことを聞くまで絶対に話さない」
「わたくしは、あなたを、公績様を傷つけたくはないのです! 傷つき、倒れてほしくはないのです!! ・・・どうしてわかって下さらないのですか、わたくしはあなたのことを」
―――とても大切に想っているのです。
そうは震える声で囁いた。
自分が愛する人を精神的のみならず肉体的にも傷つけているという事実に、はもはや堪えきれなかった。
滴り落ちる血に見向きもせずに真正面からぶつかってくる彼を、これ以上苦しめることなどできなかった。
公績様、とは密やかに呼びかけた。
この名はおそらく偽りのものだろう。
しかし、はそう呼ぶことしか知らなかった。
「・・・・・・。やっと、俺のことちゃんと呼んでくれたな」
「偽名でございましょう? 本当は、なんと仰るのですか・・・?」
「凌統。公績は俺の字なんだ。もう、以外の女には呼ばせない」
凌統は腕を緩めてを解放した。
先程告げられた言葉の数々は、凌統の心を大きく深く抉っていた。
怒りと衝撃とで我を失いそうにもなった。
がむしゃらに抱き寄せた時に武器が当たっていたことにも気付かなかった。
己の体力よりも、を失い手放すことが怖かったのだ。
だから怖かった分、が名を呼んでくれた時にはほっとした。
彼女の本心を知ることもでき、純粋に嬉しかった。
辛い言葉は、彼女の優しさや思いやりから出た嘘だったのだろう。
凌統はそう信じたかった。
「、改めて言っとく。俺と一緒に来てくれ」
「・・・それはできかねます。戦場に出ている以上、凌統殿と同じようにわたくしにも責任がございます」
「俺たちを追っ払うって役目かい。でもそれはじゃ無理だ。知ってるだろ、今どっちの軍が優勢かってこと」
「曹操軍を甘く見られないことです。わたくしの役目は、官渡より夏侯将軍らの援軍が来るまでのしのぎ」
「なんだって・・・!?」
からもたらされた情報に凌統は目を見開いた。
増援が来るだろうとは予測していたが、まさか夏侯惇ら主力部隊が押し寄せるとは思ってもいなかった。
城壁の上へ駆け上がり、外門の辺りを見やって目を疑った。
蒼穹の軍勢が城門をものすごい勢いで突破していた。
凌統はの元へ戻ると、役目は終わってるよと短く告げた。
「やばいね、もう来てる」
「凌統殿、・・・いえ、公績様、お逃げ下さいませ」
「何言ってんだよ・・・!」
「先程も申し上げましたが、わたくしはあなた様が傷つき倒れ伏す姿など見たくはないのです。このまま戦い続ければ、いかに優勢な孫策軍も保ちますまい」
の助言は的を得ていた。
しかしそれを実行に移すには勇気がいるし、今も前線で武器を振るい続けている孫策に進言するのも躊躇われた。
主君の性格はよく知っている。
退くということを嫌う彼のことだ、このまま押し切ると言いかねない。
「凌統殿。今、軍人としてのあなたが守るべきものは何でしょうか。悩む要素はないはずです」
「この戦いが終われば、もうに逢えなくなるかもしれない。ここから江南は遠い」
大地が揺れるような音が近くで聞こえる。
許昌の死守も大事だが、単身戦場に飛び出し行方を掴めなくなった公主の安否も心配なのだろう。
凌統とがいる中庭にも兵士たちがやって来ようとしていた。
は援軍の到来を感じつつも、戦場にはおよそ相応しくない柔らかな笑みを浮かべ凌統を見つめた。
「今は乱世です。父上と孫策軍が在る限り、また戦場でお会いすることもございましょう」
「・・・それもそっか。次に会った時は、絶対に俺の故郷に連れ去るから。だからその日まで俺を忘れないでくれ」
凌統はにやりと笑いかけるとにぐっと顔を寄せた。
突然の接近に驚いているの唇に、素早く自分の唇を重ねる。
掠め奪うような性急な口づけだったが、何かの保険にはなるはずだ。
抱き締めたのも3回きりだから、大きな進歩と言ってもおかしくはない。
「またな、」
凌統はそう言い残すと、曹操軍は駆けつける直前に姿を消した。
後に1人ぽつりと残されたは、今しがたやられた行為を思い出すとそっと自分の唇に触れた。
「・・・また、どこかで。・・・公績様」
ぼんやりと凌統が去った方角を眺めているの後方から、隻眼の将軍が馬を飛ばして駆けつけつつあった。
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