公主様の秘め事 終
曹操軍の増援がすぐ近くまで迫ってきていると凌統から聞かされた孫策と周瑜は、周囲の敵をあらかた退けると顔を見合わせた。
意外と粘り強く抵抗してきた守備軍のおかげで、今から新たに増援軍と戦う余力は残されていない。
本陣を落とすのにも時間を費やしているし、これ以上の戦闘の長期化は避けたいところだった。
「撤退しよう、孫策」
「けどあと少しで俺たちのものになるんだぜ!?」
「奪取した直後に猛攻を受けても、その時の我らには反撃するだけの余力はない」
「・・・・・・わかった。周瑜がそう言うんなら仕方ねぇ。おい、撤退だ!!」
「負けたわけではないのだ、孫策」
「わーってるって周瑜。よっしゃ、じゃあ凌統、また後でな!」
大した混乱もなく撤退していく自軍の後方を凌統が歩いていると、周瑜が訝しげな表情を浮かべてやって来た。
彼が尋ねたいことはわかっている。
いろいろと手筈を整えてくれたのに、申し訳ないことをしてしまった。
「あの娘の姿がないようだが、失敗したのか?」
「次会った時に、絶対に連れてきます」
「次? ・・・凌統、我らがそう何度も許昌へは攻め上らないが」
「彼女、敵さんのお姫様でしてね。そりゃ一緒に来れないわけだ」
姫という単語を聞き周瑜の顔が強張った。
何か今回の戦闘で嫌なことがあったのだろうか。
それとも単に驚いているだけか。
まぁ、驚くのも無理はない。
自分だって深窓のお嬢様だとは思っていたが、姫君だと知った時にはさすがに拍子抜けした。
難儀な子を愛してしまったものだと今でも思っている。
「・・・そうか。だが、諦めるつもりはないのだな?」
「当然です。相手が姫君だろうが何だろうが、愛し方に違いはないでしょ」
「応援しているぞ、凌統」
本当にそれでいいと凌統が割り切っているのか周瑜は疑問に思ったが、特に何も言わないことにした。
戦場で敵である女性と再会し、彼なりに決着をつけたのだろう。
凌統の存外晴れやかな顔を見る限りでは、失恋したようにも見えない。
周瑜は、この青年の厄介な恋愛が上手く実ればいいと心から思った。
「次に会う時に我が軍の姫君のようになっていたら困るがな」
「なりませんって、絶対に」
許昌を突如として襲った南方よりの嵐が、静かに去っていった。
戦闘の後始末も大方終わった許昌の宮殿内の一室で、は叱られていた。
官渡で袁紹を打ち破り帰還した父からである。
「お主まで前線で戦う必要はなかったであろう。万一の事あらば、その時こそ我が軍は崩壊しておったのだぞ」
「・・・返す言葉もございません・・・」
「よ、あまりわしを心配させるでない」
「申し訳ございません、父上・・・」
叱られるだろうとは思っていた。覚悟の上での出陣だったのだ。
父を心配させるなど、親不孝にも程がある。
「夏侯惇に教わったのだな?」
「元譲おじ上は何も悪くはございません。私が無理に頼んだのです、護身術を教えてほしいと」
「夏侯惇が本当に護身術で留める男と思うてか。武芸を身につけさせる以上、戦場に出ても見劣りせぬようさせる男よ、あれは」
「そう、なのですか・・・」
驚きの色を浮かべている娘を曹操は見つめた。
よくもまぁ、乱戦の中に単身飛び込んで死ななかったものだ。
外傷なども全く見当たらないし、戦場に出ていたとは思えない。
亡き母譲りの整った容貌をしているのだ。
下手に戦場に出られた挙句に顔に傷なんて負ってしまったら、遠くはないであろう降嫁の際に障りが出てしまう。
怪我をしないほどに、娘の細腕でも太刀打ちできる腑抜けが相手だったのだろうかとふと思い、すぐにそれはないと打ち消した。
孫策のことだから、精強な軍を連れて来たに違いない。
それでもが傷を負わなかったのは彼女自身の運と、迫り来る賊をことごとく打ち払ったからだろう。
いったい夏侯惇はどこまで娘に教えたのだろうかと曹操は不安になった。
本当に、戦場に向かうのは息子たちだけで充分だというのに。
「何にせよ、お主が無事でわしは安心した。子桓も帰還しておるゆえ、顔を見せてやれ」
「はい」
許昌に帰ってきた時から異母兄については様々な噂が流れていた。
兄のために戦ったようなものだと父が嘆いていたとか、一番の戦利品は兄のものになったなど。
どこまでが真実なのかは知る由もなかったが、兄に実際に会えばわかるだろう。
兄からもまた説教を受けるかもしれないが、それも覚悟を決めていれば怖くもない。
もっとも、精神的にはそれなりに辛いかもしれないが。
は父の前を辞すと、兄の部屋へ向かうべく外へ出た。
父の居室の外には夏侯惇が控えている。
がいろいろとお世話になりましたと言うと、夏侯惇は小さくため息を吐いた。
「もう無茶をするなよ」
「父からもきつく言われました。深く心に刻みました」
は何かと面倒見の良い隻眼の将軍に頭を下げると、曹丕の待つ場所へと足を向けた。
夏侯惇はを見送ると曹操の居室へと入った。
案の定、総大将は複雑な顔をして座っていた。
「どうした、孟徳」
「わしの可愛いが戦ってしまった。夏侯惇、お主のせいじゃ」
「俺は護身術を教えただけだ。戦場に立てとは言っておらん」
それに、教えていたから大事に至らずに済んだのだと夏侯惇は付け加えた。
その言葉に曹操の顔はますます曇った。
威厳ある父を娘の前で演じ続けているため、このような姿は夏侯惇と卞夫人の前でしか晒せない。
「自室まで火の海にして、はもしや武人としての才も秘めておるのではないのか!?」
「それはない。・・・まぁ、確かになかなか派手に火遊びをしたようだが」
の戦闘能力が高いかと聞かれれば、夏侯惇は間違いなく否と断言できる。
非力な彼女が蛮勇を誇る男たちが振るう武器の重みに耐えられるはずがない。
それに仮に自分と戦えば、数秒と経たずに頭と胴体は離れている。
ただ、とも思った。
これはでなくても言えることだが、人は何かを守るため、目標のためならば強くなれるのだ。
先日の孫策軍との戦闘の時も、は許昌を守るために立ち上がり兵たちに呼びかけた。
兵たちは許昌と、そして何よりも身を挺してまで都を守ろうとした公主を守るために奮起した。
袁紹との戦いだって似たようなものだった。
兵糧という必要不可欠なものを失った彼らは次々と崩壊していった。
人とはそういうものなのだ、と夏侯惇は小さく呟いた。
「孟徳、今後は公主も戦に従軍させるのか?」
「何を言うかと思えば。そのようなことをするはずがなかろう、わしはが戦ったことに怒っておるのだ」
「そうか」
あれが見間違いや幻覚でないのならと、夏侯惇はあの出来事を思い出した。
敵同士だというのに武器も交えず、人気のない場所にいたと敵将。
はっきりと見えたわけではないが、自分が中庭に入る直前、男との間にあった距離がなくなったのだ。
彼はの知人を越えた存在なのかもしれない。
もしも2人が夏侯惇の思っているような間柄にあるのなら。
どうするのが一番いいのかと言えるほど、夏侯惇は男女の仲については詳しくない。
が、乱世の姫君として生まれたばかりに何かと拘束が多く、想っている相手と結ばれることも叶わないであろうには幸せになってほしかった。
その男と結ばれるのが最善ならば、そうなってもいいのではないかとも想った。
もっともそんなこと誰かに言えるわけがないし、に問い質すつもりもなかった。
それに曹操の愛娘が敵軍の一介の武将ごときと結ばれるなど、本来ならばあってはならない事態だった。
すべては自分の身勝手な想像であり事実ではない。
たとえ己に残されたもう1つの目に全幅の信頼を置いていたとしても、こればかりは目を疑っていた。
(公主の秘め事、か)
夏侯惇は心の中で呟くと、未だにががと連呼している曹操にいい加減子離れしろと一喝するのだった。
ー完ー
分岐に戻る