公主様の秘め事     5







 許昌へ攻め入る日が決まった。
元々それが目的でこちらに来ていたのだからおかしくはなかった。
しかし凌統は寂しく思っていた。
戦になれば、たとえ民を傷つけることがなくてもを悲しませてしまう。
もしも当日に彼女が街へ出ていたならば、戦いに巻き込んでしまうかもしれない。
自分が孫策軍の武将だと知られてしまったら。
愛する許昌を戦火に晒しているのは他でもない自分だと知ったら、嫌われてしまうかもしれない。
彼女に嫌われたくなかった。
ずっと旅人として接していたかった。
それが無理な望みだとわかっていてもなお。




「私の調べによると、市街には宮殿内部と繋がっている隠し通路があるそうです」




 軍議の末席にいた青年が手を上げて発言した。
孫策軍本隊よりも先に許昌入りし、侵入方法を探っていた陸遜である。
頭の回転が速く読みも深いこの青年は、今回の戦いでは別働隊を率いて警備の手薄な城側面から攻め込む予定だった。





「その話は俺もちらっと聞きましたよ。どこにあるのかまでは調べきれなかったけど」
「おそらくは曹操の身内を逃がすための緊急用だろうが、兵に押さえられている可能性も高いな。どうする、孫策」




 周瑜は黙って話を聞いていた一番前の男を見つめた。
孫策はそんなの決まってるだろというとにっと笑った。




「俺たちは正面突破で宮殿に攻め込む。本当に曹操の身内が出てきたら捕まえときゃいい」
「そうだな、仮に通路を見つけたとしても突出せず、迂闊に中に入るな」
「そういえば今宮殿には曹操の娘が1人いるとか」




 凌統はいつぞや商人から聞き出した情報を軍議の席で出した。
もちろん彼はその娘が本人であることなど知らない。
ただ、生け捕りにでもしておけば有効だろうと考えただけである。




「ははっ、いくら曹操の娘だろうが尚香みたいに戦場に出るもんか。見つけたら保護しとけ、手荒な真似はすんじゃねぇぞ」
「官渡の方も戦が大きく動いたらしい。曹操軍が帰還する前に早急に帝をお守りするのだ」




 軍議が終わり凌統はのんびりと外に出た。
次にに逢う時が最後になるだろう。
それから以後は、会ったとしても侵略者と民になる。
恐怖の目で見られるのは勘弁したいなと思い空を見上げていると、背後から声をかけられた。




「凌統、君に少し話がある」
「なんでしょう周瑜様」




 周瑜は凌統の隣に立つと、同じように空を見上げた。
月に照らされた顔もまた美しくて、思わず見惚れてしまう。





「この戦に勝っても我らはすぐにまたここを去らねばならないだろう」
「官渡帰りの曹操軍を防ぐのはきついですからね」
「凌統。・・・あの娘を連れ帰ったらどうだろうか」
を? そりゃまたなんで・・・、彼女は許昌の民ですし、家族もいるってのに・・・」
「君の殿への思い入れの深さは並ではない。・・・呉にいた時、それほどまでに想いを寄せたことがあったか?」
「ない、ですけど・・・。・・・わかってるんです、俺はがいないと寂しいし不安になる。戦だって、当日に彼女が外に出て巻き込まれたらと思うと気が気じゃない」





 を連れ帰るだなんて、今まで考えたこともなかった。
しかし、周瑜の言うように向こうに連れて行くことができたら。
別れることも寂しい思いをすることもなく、ずっと彼女と共にいることができる。
もっと近しい間柄になることだって夢ではない。
しかし、とも思った。
無理に連れ出して彼女は悲しまないのだろうか。
許昌から遠く離れた南の地で楽しく暮らせるのだろうか。
家族と引き裂かれ、恨まれるのではないか。
どうすれば幸せになれるのかわからなかった。




「・・・無理矢理連れ帰ったら、きっと嫌われますよ?」
「同意を得るかそうでないかは君が決めることだ。だが連れて行くということになれば、私は君を応援しよう」





 周瑜は凌統の肩を軽く叩くと宿舎へ戻っていった。
凌統は再び空を見上げると、小さくの名を呼んだ。































 誰かに名を呼ばれた気がして格子を開ける。
宮殿の四方にそびえる櫓から哨兵たちの持つ松明の明かりが見えた。
この監視の中から抜け出し市街で気ままに遊んだことなど夢のような出来事だった。
さすがに夜は大人しくしているが、きっと夜は夜で楽しく賑やかなのだろうと思った。





「公主、あまり窓に近づきますとお風邪を召されてしまいます」
「たまには良いではありませんか。ほら、夜の市中のなんと煌びやかなこと・・・」
「公主」




 侍女の嗜めるような声には苦笑した。
大切な公主が体調を壊そうものならば、身の回りの世話をする侍女が叱られかねない。
城主であり父でもある曹操がいない間に面倒を起こしたくないという思いもあるのだろう。
が格子から離れると間もなく、ぴしゃりと外気が閉ざされた。




「公主、外の世界に興味をお持ちになることはお止め致しません。されど、庶民と親しくするのはいかがかと・・・」
「・・・それはわたくしとあの者たちとでは、住む世界が違うからでしょうか」
「公主は曹操様の大切な姫君でございます」





 いつだって、どんな時もである前に曹孟徳の娘という肩書きがくる。
必要とされ大切に育てられているのは公主である。
たとえ自分でない他の誰かが公主だったとしても、彼女たちは変わらずに公主様とかしずくのだろう。
何もなしに己を見て語りかけてくれたのはたった1人だった。
事情を知らないからとはいえ、ありのままの接し方がにとってはこの上もなく嬉しかった。





「・・・1人にしてもらえますか」
「かしこまりました」





 侍女が退出したことを確認し、はもう一度格子を開け放った。
誰かに呼ばれたのは幻聴ではない気がした。
誰かが、同じ空を見上げて名を呼んだのだ。
それは戦場にいる父や兄ではなく、公績である気がした。
そうあってほしいと願っていた。
近いうちに別れてしまう青年。
生まれて初めて素を曝け出すことができた相手だった。
彼は次はどこへ旅するのだろうか。
いや、公瑾という男との関連からして、もしかしたら旅人ではないのかもしれない。
素性の真偽などもはやどうでも良かった。
自分だって仮面を被って接しているのだ。
これまでも、おそらくはこれからもその仮面が剥がれることはないだろう。





「・・・公績様、あなた様が見たがっていた姫君はわたくしのことなのです・・・。・・・遠くへ行かないで・・・」





 の小さな叫びは、漆黒の闇へと溶けて消えていった。







分岐に戻る