公主様の秘め事     6







 ここに旅人して訪れるのは最後になる。
凌統はそう思いながら、廃屋への道を歩いていた。
懐に忍ばせているのは彼女への贈り物。
勇気が足りなくて言い出せなかったら、これだけ思い出として渡すつもりだった。




、来てるかい?」




 いつもと変わらず薄暗い廃屋に明かりを灯して名を呼ぶ。
暗闇だというのに感じられる人の気配から、もしやと思ったのだ。
が先に来ている時は必ず火が灯されている。
明かりもないのに人の気配だけするとは、家なしの連中がたむろしているのだろうか。





・・・?」




 凌統は無造作に積み上げられた箱をかき分けながらを探した。
するとガタリと大きな音が、凌統からやや離れた所から上がった。
埃を吸い込んだのか、けほけほと咳き込みながら現れた人影に思わず身構える。
誰だいと鋭い声で呼びかけると、公績様ですかと弱々しい声が聞こえてきた。





「・・・? なんだってどんなとこに。誰かに何かされたのかい!?」




 はぎこちなく笑うとかなり急いで凌統の元へ動こうとした。
が、大小様々な箱に阻まれ思うように進めない。
凌統は小さく息を吐くと、足元の箱をどかしての手を掴んだ。





「じっとしててくれるかい?」
「はぁ・・・」




 凌統はの腕を引き寄せ素早く腰に手を回すと、軽々と体を持ち上げた。
驚きのあまりが声を発する前にそっと地面に下ろす。
ぼうっとしたままのに顔を近づけると、と言って頭を軽く叩いた。




「あっ・・・、はい、何でございましょう?」
「どうしてまたあんなとこにいたんだい?」
「それは・・・・・・」





 凌統の問いかけには言葉を濁した。
言えるはずがなかった。
秘密の抜け道を使ってここまで来たのですなど、口が裂けても言えなかった。
どうにも答えようがなくて黙りこくっているを見て、凌統は不思議な気分になった。
なんでもあれこれと笑顔で教えはきはきと受け答えをしていた娘である。
そういえば俺はについて何ひとつ知らない。
そう思うと、凌統は無性にの秘密を知りたくなってきた。






、俺に何か隠してるだろ?」
「・・・そうでしょうか・・・?」
「さっき俺の質問に答えなかっただろ。絶対に隠し事してる」
「そうですか・・・。・・・では、公績様はわたくしに何も隠し事はされていませんか?」





 されていますよねと言うと、は柔らかく笑った。
凌統は何も言い返せずに苦笑するだけだった。
確かにそうだ、自分だって一番大切なことを隠したままと逢っているのだ。
人の秘密をやたらと知りたがっていい資格はなかった。




「・・・ごめん、。俺も確かに隠してることあるわ」
「そうでございましょう? 人とはそのようなものなのです。どれだけ気を許した相手であったとしても、すべてを見せるのには勇気がいるというものです」
の言う通りだな。・・・・・・あの、さ、





 凌統は小さくの名を呼ぶと、懐の贈り物に手を伸ばした。
が、その行為はの声によって遮られてしまう。





「まぁ公績様、髪紐が千切れてしまいそうです」




 はゆったりと立ち上がると、凌統の背後に回った。
そして失礼いたしますと言うと、凌統が止める前に髪紐を解いた。
1つに括っていた長髪が一気に開放され、頬に髪がかかる。





「公績様の髪は長くてとても綺麗ですね・・・。初めてお会いした時からずっと羨ましいと思っておりました」
「そうかい? ・・・で、何をしようとしてるんだ?」
「解けたままの髪ではお辛うございましょう。わたくしに結い直させて下さいませ」





 の白くて細い指が凌統の頬にかかった髪に触れた。
それと同時にふわりと頬を撫でられ、あまりの気持ちよさに目を閉じる。
目を閉じれば様々な思い出が蘇ってきた。
土砂降りの日に人気のない廃屋で初めて出逢った。
初めこそ緊張して固くなっていただったが、打ち解けるまでにそう時間はかからなかった。
手作りの肉まんもたくさんもらった。
周瑜に見られた時には気が気でなかった。
日常のことをあれこれ語り合った。
2人で市場を歩いたりしたことは一度だってなかったが、との逢瀬は戦争のためにやってきた凌統の心を大いに癒し、そしてときめかせてくれた。
そんな楽しい日々も今日が最後になってしまうのか。
耐えられなかった。
凌統は目を閉じたまま、に話しかけた。





「・・・、俺、次の土地に行くことになったんだ」





 髪を梳いていたの手がぴたりと止まった。
そうですか、と硬い声で言葉が返ってくる。




「いつ、出発なさるのですか?」
「明後日。でも、明日は準備があるからここには来れない」
「では・・・・・・、公績様とお会いするのは今日が最後ということになるのですね」





 の手が再び動き始めた。
しゅるりと布らしきものが解けた音がして、思わず振り向きそうになる。
しかしじっとしていて下さいと存外強い口調で言い渡され、仕方なく前を向いたままの状態になる。
大人しくて穏やかな彼女が声を荒げたことが新鮮だった。





「・・・申し訳ございません。・・・驚かれたでしょう?」
「あぁ。だっては超お嬢様で人を怒鳴ることなんてなさそうだもんな」
「・・・顔を見られたくないのです。今のわたくしを見たら、きっと公績様は逃げてしまわれます」





 終わりましたと告げられ、凌統は髪に手をやった。
先程とそう変わらない気がするが、髪紐の手触りが違った。
新しいのに付け替えてくれたのだろうと思い振り返るが、その直後はぱっと背中を向けた。
顔を見ることができなかった。
しかし、だからこそすぐに気付くことができた。
会った時には綺麗に結われていたはずの髪形がそこにはなかったのだ。
自分のを解いて結んでくれたのだろう。
そう思うとさらにが愛おしくなった。
顔が見たくてたまらなくて名を呼ぶが、いけませんと小声で拒否される。





、お願いだから俺の方を向いてくれ」
「できません・・・! 本当に、今のわたくしを見たら公績様「逃げないから!!」





 凌統は頑なに拒むに痺れを切らして背後から抱きしめた。
公績様と慌てて叫ぶの髪に顔を埋める。
もっとその名を呼んでほしい。
これから先、以外のどの女にも字で呼ばれたくなかった。
爪を立てて傷つけないようにとそっと顔に指を這わせると、熱く濡れた肌に辿りついた。
泣いていたのかと知ると、凌統はさらに強くを抱きしめた。





・・・・・・、俺のこと、嫌い?」
「そんなはず・・・!」
「だったらこっち向きなよ。いや、強引にでも向かせる」





 凌統は腕の中のをくるりと一回転させた。
俯いたままの顔を覗き込む。
逃げるはずがなかった。
別れる自分のために涙しているは、今すぐ連れ去ってしまいたくなるほどに美しかった。






「・・・お気付きかもしれませんが・・・、わたくしの髪紐を使わせていただきました。使い古しで申し訳ないのですが・・・」
「嬉しいよ。それにちょうど良かった、俺もにこれ渡そうと思ってたんだよ」





 凌統は懐から真紅の紐を取り出した。
孫策軍、ひいては故郷に当たる呉の地方を象徴する鮮やかな色だった。
はいつも青色系統のものしか身に着けていなかったが、艶やかな紅色の方が似合うと思っていた。
凌統はの髪を持ち上げると、少し考えて自分と同じように1つに結いあげた。
よく似合ってるよと言うと恥ずかしげに微笑む。






「すごく綺麗な色・・・。公績様のこと、忘れられなくなりそうです」
「忘れなくていいよ。・・・・・・、俺と一緒に行こう、





 訝しげな表情を浮かべたを凌統はもう一度、今度は正面から抱きしめた。
嫌だと拒絶されるのは怖いし辛い。
しかし、一歩踏み出さなければ本当にこれっきりの出逢いになってしまう。
躊躇って後悔したくはなかった。




「それはどういう意味でしょうか、公績様」
「俺や、こないだ会った公瑾様はかなりの大人数で旅をしてるんだ。明後日にはもうこっちでやること終わるから、故郷に帰る予定。だから・・・、、俺の故郷に一緒に来てくれないか?」




 は凌統の胸に頬を寄せながら、必死に話を整理していた。
彼と一緒に行くということは即ち、故郷を捨てるということになる。
故郷だけでない、父も義母も異母兄姉や領民たちを裏切ることになるのだ。
今まで育ててくれた人々を捨てることなどできなかった。
ましてや彼の故郷は遠く離れた南の地である。
南といえば、最近急速に力をつけてきた孫策が統べる土地だ。
曹一族たる自分が進んで敵の土地へ向かうなど普通考えられなかった。
しかし、凌統と離れることもまた、辛い選択だった。
仮に次会ったとしても、その時にはもう自分は父の配下である者たちに嫁いでいるだろう。
本当に愛しいと想っている人がいるにもかかわらず他人に嫁ぐことは、耐え難いものに違いない。






「それは・・・・・・、今すぐは、返答致しかねます・・・」




 諾とはもちろん、否とも言えなかった。
それほどまでに迷っていた。
公績と共に行くことに魅力を感じていた。
彼のことは未だによくわからないが、悪い人ではない。
これから知っていくというのも、愛し方のひとつではないだろうか。
今は亡き母だって、父に見初められた時は父についてなどほとんど知らなかったはずだ。
凌統はそう言うだろうと思ったと言うと、の体を離しじっと瞳を見つめた。




「別に無理強いしてるわけじゃないんだ。でも・・・、俺はをずっと愛するって誓える。・・・もしも俺と一緒に来てくれるんなら、明後日のこの時間、ここにいつもみたいに1人で来てほしい。
 外が騒がしくても、俺の名前を出せば大丈夫だから」
「・・・わかりました」




 何を選べば一番幸せになり、後悔せずに済むのか。
人生最大の選択を迫られただった。







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