マリオネットは夢を見る     序




 好いてもらえる資格と自信があるのか?







 空がこれほど高くて広いとは、今まで考えたこともなかった。
見上げれば当たり前にある景色を眺めることができなかったから、今は陽の光の眩しさと暖かさと柔らかさをめいっぱい浴びていたい。
は汚れで固まりきった髪の間から太陽を仰ぎ見た。
顔を上げれば、必然と周囲の人々の視線にも気付く。
ざわざわひそひそと、決して好意的ではない視線と言葉に晒されている。
人に見られることには慣れているが、今までとは種類が違う。
当然だと思う。
牢に入れられてからどれだけの時間が経っているのかわからないが、投獄される前から汚物に塗れた姿だったのだ。
近付くことはおろか、本当は牢から連れ出すことすら嫌だったに違いない。
変わった人に出会ってしまった。
は牢から助け出してくれた男へ視線を移した。
いつから見られていたのか、いきなり目が合う。
男の視線からは何の感情も読み取れなかった。



「俺に何か」
「いえ・・・」
「この先に宿があるそうです。まずは体を休めましょう」
「私も?」
「ええ、もちろんです」



 何か、と訊きたいのはこちらの方だが今は事を荒立てたくない。
話を聞くに、どうやら牢から出して終わりではなかったらしい。
話したいことがあると男は言っていたが、話とやらは宿でするのだろうか。
見てくれこそ悲惨だが、ようやく自由になった身だ。
貂蝉や王允の安否が気がかりで、できればすぐにでも洛陽の邸に戻りたい。
董卓が死んだとは漏れ聞こえてきたが、董卓軍の兵たちの処遇も気になる。
張遼は無事だろうか。
呂布の側にいた忠義の塊のような男だったから、董卓に殉じていてもおかしくはない。
いきなり動かず、まずはここで待機した方が良いのでは。
ひょっとしたら、やって来るかもしれない彼の目的が何であれ再び会えるのでは。
汚れ切った姿にしたばかりか投獄した男に今でも会いたいと思っていることに気付き、空しくなる。
張遼にはあの日を境に嫌われているだろうに、これ以上彼に何を期待するというのだ。
縋る相手を間違えているとわかっていても、微かな望みを絶ち切れない。
はてきぱきと移動の支度を始めた男へ声をかけようと口を開いた。



「私、残ります」
「許可できかねます」
「洛陽には姉や知人もいます」
「姉君にはこちらから伝手を探します。それに洛陽は董卓の手によって焼失したそうです、ご家族が残っている可能性は低い」
「洛陽が!?」



 突然の凶報に目眩がする。
慣れ親しみ遊び回っていた漢の都が焼け落ちた。
王允邸も、通っていた箏の師匠の館もなくなったはずだ。
何もかもなくなってしまった。
牢にいた間に外はあまりにも変わってしまった。
世の中から取り残されてしまった。
急に独りぼっちになったようで、立つことも覚束なくなる。
よろめいた汚れた体を男が力強く掴み取った。



「俺たちには休息が必要です。俺についてきて下さい」
「・・・はい」


 自由になるには今はまだ力が足りない。
名乗りもしない男を信じることは難しいが、今は他に頼る当てもない。
が頷いたのを確認すると、男はそっと手を離した。




























 危ないところだった。
荀攸は宿の一室で深く息を吐くと、頭を抱えた。
どうにか女を牢から連れ出すことはできたが、残ると言われた時は言葉に詰まった。
心身ともに疲れきっている女に心ない言葉を突きつけてしまいそうで、疲労困憊の頭で懸命に比較的柔らかな言い訳を捻り出した。
彼女の家族はもちろん探す。
彼女が望むものがあればなんでも用意するし、何も望まなければこちらの気が済むまで世話をする。
仮に彼女が長安に留まったとして、家族が迎えに来るならまだ良い。
問題は家族以外だ。
彼女を牢獄送りにした董卓軍の将には絶対に渡したくない。
二度と出会ってほしくない。できれば死んでいてほしい。



「まずは成功、次はどうする・・・?」
「こ、公達殿! 女が消えてしまった!」
「は・・・?」
「湯浴みに行ったきり戻らぬ。逃げたのではないか?」
「探します」



 女人の周囲を男どもがうろつくのは嫌だろうと、距離を置いていたのが間違いだったか。
だが、荀家が寄越した男たちは誰も彼女に近寄ろうとはしなかった。
彼女を湯浴みへ見送ってからは、せめて臭いが消えればと声高に話していた。
荀攸は女の部屋へ足を向けた。奥で若い娘が男と話している。
なんだ、逃げてはいないではないか。
すっかり汚れも落ちて、初めに見た時の姿のままだ。
年若い美女を前に、男は明らかに鼻の下を伸ばしている。
大事な客人に粗相を働かれては堪ったものではない。
荀攸はそっと2人に歩み寄った。



「湯浴みに訪れた女人ですか? 私しかいませんでしたが・・・」
「ふうむ、ではやはり逃げたのか? この辺りでとびきり汚れた女はいなかったか?」
「私のことでは」
「いやいや、まさか」
「皆、あなたを探していたようです」
「まあ・・・」
「は!?」



 お騒がせしたようですと、輝く髪を持つ女がぺこりと頭を下げる。
汚れた醜い女の真の姿を目の当たりにした家人は、え、え、と情けない声を上げている。
牢から出たばかりの頃と違い、今は身綺麗になって落ち着いたのか表情も明るく穏やかだ。
着ている服は急ぎで揃えたので農婦のそれだが、里に戻ればもっと彼女に似合うものを用意させよう。



「明日には里に着きます。ゆっくり休んで下さい」
「はい」


 顔を上げた女が、小さく笑みを浮かべる。
美しい女の美しい笑みに吸い込まれそうになり、荀攸は目を逸らした。





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