女狐の艶笑     終







 どきどきする。
心臓が体外に飛び出しそうだ。
は婚礼衣装に包まれた体をかちかちに固まらせていた。
いつか来るとは思っていたし楽しみにしていたが、いざ当日となるとやはり緊張する。
緊張をほぐそうと思い趙雲の顔を思い浮かべると、ますます緊張する。
今日をもってあの人の妻になるのだ。
求婚されてからの時間は、と趙雲にはとても長いものだった。
日頃の勉強不足のじゃじゃ馬加減が仇となり、礼儀作法の特訓は困難を極めた。
10日で終わらせるだなんてとんでもない、下手をすれば十月はかかりますと師から言い渡された時は絶望で家を出ようかと思った。
いや、実際に2,3日ほど家出をして星彩の部屋に隠れていたのだが。
見つかってこっぴどく叱られ、指導がより厳しくなったのだが。
あの先生は本当に怖かった。
ちょっとばかり気の弱い娘さんならば泣いていたかもしれない。
そう兄にぼやくと、普通の娘はお前ほど手がかからないからありえないと即答された。
数少ない理解者だと思っていた兄にまでそう言われて、ようやく観念して大人しくなったのだ。
おかげで今ではすっかり外面のいい娘になった。
こんな私で大丈夫なのだろうかと不安にもなる。





「はい」
「他家へ嫁いでも我らとの生活を忘れてはならん。何かあったらすぐに帰って来い。趙雲殿がお前を折檻すれば、俺が殴ってやる。
 泣かせるようなことがあれば、俺が代わりに泣かせる。いいな」
「そういうのは兄上の取り越し苦労だから大丈夫だよ。子龍殿はそんなことしません」
「いいえわかりませんよ。私たちの目がなくなった途端に本性を剥き出しにするかもしれません。男とはそういう生き物なのです」
「岱兄上じゃないから平気だってば! もう、せっかくの祝いの日なんだからちゃんと祝福してよ!」
「・・・そうだな。幸せになれ、。今まで俺たちが良くしてやれなかった分、幸せにしてもらえ」





 くるりと背を向けた馬超を、は兄上と呼んだ。
確かに今までの生活は決して満たされていたわけではなかった。
逃亡中はいつも腹を空かせていたし、服も体も泥だらけだったし、挙句の果てには敵陣に1人置いてけぼりを喰らった。
けれども、兄も従兄もいつも一生懸命だった。
母を失い寂しくて泣いていた幼い自分を慰め、気分転換にと父の領地のあちこちを案内し馬術を教えと、寂しがらせないようにいつも傍にいてくれた。
故郷を追われた時も、極力危険には晒さないようにと一番安全な場所を進ませてくれた。
諸葛亮に無理やり戦場へ連れて行かれ孤立した時も、何も言わずに助けてくれた。
家族だが、兄妹とはいっても血も繋がっていないのに今日まで両親の代わりに育ててくれた。
今までの日々を思い出し、の目に涙がこみ上げてくる。
乱暴でやってること無茶苦茶で無鉄砲だったけど、大好きだった。
涙を堪えることができなくて顔を手で覆うと、馬岱が布でそっと目元を拭ってくれる。




「せっかく綺麗にしてもらったのに泣いたら台無しですよ。ほら、顔を上げて下さい。ああ可愛い、あなたのお母上にそっくりですよ」
「本当に・・・? 岱兄上、私の母上知ってるの?」
「ええもちろん。私が初めて好きになった女性はあなたのお母上ですからね。いつでも帰って来ていいんですからね、趙雲殿以外にも男はごまんといます」
「もう、岱兄上最後まで意地悪!」




 本当にこの人たちは、最初から最後まで寂しがらせないように全力で手を打ってくれる。
はくしゃくしゃになりかけていた顔をきっと引き締めると、行ってきますと告げた。
趙雲の妻になってもこの家のことは忘れない。
いいことも悪いことも全部、忘れてたまるものか。
控えの間を出たは、外で待ちかねていた趙雲に差し出された手にゆっくりと自身のそれを重ねた。





































 祝言を挙げて特別何か変わったということはない。
相変わらず馬には乗るし、外もふらふらと出歩いている。
帰る場所が変わって、趙雲と一緒にいる時間が以前よりもぐんと増えたくらいだ。
そのちょっとした変化が嬉しいのは幸せだからだろう。
夫となっても変わらず優しい趙雲との生活に、は満たされていた。





「・・・と、それを俺たちにひけらかすのはやめろ
「だって、兄上たち寂しがって心配してないかなあって思って」
「お前がここに入り浸ると趙雲殿がうるさいのだ。妻を拐すなど誤解も甚だしい」
「子龍殿そんなふうに仰って下さるの? うふふ、愛されてるってことか」
「惚けるな! 岱、を追い出せ。も、妻ならば家で夫の帰りを静かに待つことができんのか」
「まあまあ、いいじゃありませんか従兄上。、美味しいお菓子をいただいたんですが持って帰りますか?」




 馬岱が持ってきた包みの中を見ては歓声を上げた。
もしかしてわざわざ用意しておいてくれたのかなと思いつつも喜んで受け取ると、馬岱も嬉しそうに笑う。
婚前は小姑のように何かとやかましく事あるごとに趙雲を狙撃しようとしていた馬岱だったが、趙雲に嫁いでからは憑き物が落ちたかのように穏やかな性格になった。
他人に対するさりげなくもきつい一言はなくなっていないが、初めの頃はどうしたものかと困ったものだった。
原因不明の病かと騒ぎ、馬鹿なことを言っていないで仕事をしなさいと一喝されてようやく疑問を解消したくらいだ。




「じゃあそろそろ帰ろっかな。またね兄上、岱兄上」
「もう来るな! いいか、馬家の娘として責任ある振る舞いをだな・・・」
「はいはい。もう、兄上ったらそういう事言っちゃって老けた?」
!」




 兄たちの執務室を後にして屋敷へと戻る。
家の者たちとの仲も良好だし、ご近所付き合いも卒なくこなしている。
趙雲と出会ってからいいことずくめだ。
これ以上、何の幸せを望むというのだろう。




「ただいま帰った」
「あっ、お帰りなさいませ子龍殿。今日はお早いお戻りですね」
「ただいま。ああ、今日は万事が上手く捗ったからな。劉備様が漢中王となられてからというもの、我が国は吉事ばかりだ」
「そうですね。荊州も関羽様が見事に治めていらっしゃると聞きますし、いよいよ曹操の首を取るという段階でしょうか」
「そのために我らは戦い、兵を鍛えているのだ。もちろん、愛する人を守るためにも」
「子龍殿・・・」




 そっと肩を抱かれ、ゆっくりと目を閉じる。
温もりにとてもほっとする。
大切な、かけがえのない絶対の安心感を与えてくれる大好きな温かさ。
これからもずっと、死が2人を分かつ時まで彼に包まれていたい。
は趙雲の胸に顔をすり寄せると、もう二度と手放さないとでもいうようにぎゅうと両腕を背に回した。









  ー完ー







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