女狐の艶笑     7







 珠蓉は、一時期は本当に趙雲のことを愛していた。
世が乱れているということもあまり理解できなかった幼い時分は、いつの日か本当に趙雲の妻にしてもらえると思っていた。
あまりにも嬉しくて何度も何度も念を押し、挙句趙雲にしつこいと叱られたこともしっかりと覚えている。
楽しかった、あの頃は。
帝の威光が地に堕ち立派に成長した趙雲が生まれ育った地を離れるその瞬間まで、珠蓉はとても幸せだった。
だから、彼が去って間もなく我が身に起こった出来事をなかなか受け入れることができなかった。
どうして助けてくれないの。
あんなに約束してたのに、どうして迎えに来てくれないの。
彼には彼の都合があり仕える主がいるということも考えきれないくらい、当時の珠蓉は荒んでいた。
荒みきった心を癒しはしなかったが共存できるように手を打ってくれた上司には一応、感謝はしている。
行き倒れているところを拾ってくれたことには恩も感じていた。
いつかこの恩を返し、そして、あの時助けに来てくれず見捨てた趙雲への恨みを晴らしたかった。
それが今回の任務に結びついたのだと思う。
適任だと思ったし、なによりも、他人にこの任務をさせたくなかった。
自分を見捨ててまで離れなかった主を裏切らせ、それが叶わなければ脅威にしかならない猛将を亡き者にするなど、恩と恨みを一度に片付ける絶好の機会なのだ。
人がいい趙雲は大して疑うことなく家へ招き入れてくれた。
彼にまとわりつく厄介な小娘も遠ざけることに成功した。
ここまでの首尾は上々だ。
残るは、趙雲をいかにして篭絡するかである。
よほど馬家の娘を想っているのか、趙雲に女の影はちらともない。
それとなく誘ってみても相手にされない。
揺さぶりがいがあるとはいえ、じっくりと昔なじみ生活を楽しんでいる場合ではなかった。
珠蓉には趙雲の件だけではなく、まだまだなさねばならない仕事があった。
今のところはそちらの仕事は上手く捗っている。
密偵としての仕事も板についてきたようで、技術の向上には素直に喜ぶことができた。





「そういえば珠蓉、昨日街外れの廃屋へ行ったのか?」
「え?」
「そなたを見たという者がいた。あの辺りは人通りも少ないし、女一人で近づくには危ないゆえやめた方がいい」
「わかったわ子龍。ふふ、そんなに心配してくれるなら子龍も一緒に行かない?」
「・・・珠蓉、私は忙しいのだ」
「忙しいってどう忙しいの? 今、子龍は何をしているの?」
「珠蓉に言うようなことではない。それよりもいつまでここにいるつもりだ」
「子龍が出ていけって言うまで・・・とか?」





 優しい趙雲が出ていけなど言えるはずがない。
珠蓉は趙雲の心を見透かし、また嫣然と微笑んだ。
彼と共に生活することで性格もだいぶつかめてきた。
昔と変わらず優しい男だった。
その優しさにつけ込み、かつて愛した男を苦しませようとしている。
昔ならば、そんな悪魔のような所業は耐えられないと涙を流していただろう。
その優しさが仇となるのだと何よりもまず最初に思った今は、純粋だった頃の甘やかな考えに嘲笑をくれている。
酷い女だと思うが、こういう自分も嫌いではなかった。




「珠蓉、いったいどこで働いている」
「秘密。大丈夫、いかがわしいお店じゃないわ」
「旅費が足りぬのであれば私が工面する」
「そこまで子龍に頼るわけにはいかないわ。それに・・・そうね、お金はいらないから私の次の目的地まで一緒に来てくれたら嬉しいのだけど・・・」
「それはどこだ?」
「とても素敵な所よ、ぜひ子龍も来てほしいわ」
「ほう。ぜひ訪ねてみたいな、も連れて」
「ああ、それもいいかもしれないわ。きっと人生で一番驚くような光景をお見せできるわ」





 あなたが目の前で倒され、次いで自らも殺されるという人生の最期の瞬間にはさぞや驚くでしょうね。
珠蓉の心の本音に気付く由もない趙雲は、行くとしてどうやってを誘おうかと考え始めていた。





































 街外れの廃屋が危険なことは知っている。
危険だと呼ばれる理由も知っている。
おそらくは自身も趙雲が指す危険な存在の一人になるのだろう。
珠蓉は周囲に人影がないことを確認すると、ひらりと廃屋へと身を滑らせた。
今日の分よと短く告げ木簡を暗闇へと投げると、確かにいただきましたと男の声が返ってくる。
いつもは無言で受け取りすぐに消えるというのに、今日は新入りなのだろうか。
それならそうと昨日伝えてほしかった。
珠蓉は暗闇に背を向けると外へ出るべく戸に手をかけた。
どれだけ力を入れても開かない。
どうしたことかと思い周囲へ視線を巡らすと、部屋に急に明かりが灯る。
光の中から現れた人物に珠蓉は思わず舌打ちした。
美しい女性が舌打ちなどするものではありませんと、咎めるような声が上がる。
なぜここにいる。
珠蓉が2,3歩後退すると、男は後退した分だけ歩を進めた。






「はじめまして、新入りです」
「何のつもり?」
「その言葉、そっくりそのままあなたにお返しします。うちのを傷つけるとはどういう料簡をしているんですか、あなた」
「事実よ。子龍にとってあの子は邪魔な存在。もちろん私にとってもね」
「・・・私、自分では気付かないんですが、身内のことを3回悪く言われるといつの間にやらその方の息の根を止めるそうです。ですから言葉には気を付けて下さいね」




 趙雲のことなど別にどうでもいい。
馬岱や馬超が許せなかったのは、可愛い妹分がぽっと出の女に苛められ悲しい思いをしていることだった。
本当に憎くてたまらない。
憎さ余ってここへ詰めていた密偵集団を皆殺しにするところだった。
すんでのところで馬超に止められたが。




「あなたの素性は知れています。今なら逃がして差し上げることもできるんですがどうですか、あんなくだらない男に命を賭けるのはやめませんか」
「ふふ、あなたもかなりお口の悪い人だこと。それがお仲間に対する表現かしら」
「可愛い妹分にまとわりつく男は、どんな奴であれただの虫ですから」
「まあ。じゃあ、あなた自身に群がる蝶は?」
「以前は蝶が大好きで飼っていましたが、中には毒を持つ蛾もいたのです。それ以来私は、蝶もあまり好きでなくなりました」





 これ以上話を続けていても意味がない。
馬岱は珠蓉へと歩み寄った。
どんなに言葉で傷つけようと、肉体が動く限りは負けることはない。
相手は武人でも男でもなくただの女だ。
更に後ずさる珠蓉の腕をつかもうとしたその時、珠蓉がどんなに力を入れても開かなかった戸が大きな音を立て蹴破られた。




「珠蓉!」
「子龍・・・!」
「馬岱殿、これはいったい・・・」
「今は取り込み中です、退いて下さい趙雲殿」
「子龍助けて、この人が私に・・・!」




 殺気立っている馬岱と、怯え目尻に涙を溜めている珠蓉の間に趙雲は割って入った。
事情はよくわからないが、とにかく珠蓉は怖がっている。
馬岱が自分を毛嫌いしていることは知っているが、どこから嗅ぎつけたのか、昔なじみにまで手を出すとは思わなかった。
やりすぎにもほどがある。
こんな場所にまでついてきて何をするつもりなのだ。




「あなたがそうやって得体の知れない女ばかり気にするからが傷つくんです!」
「得体が知れぬ女などではない。珠蓉は私の知り合いだ!」
「人は変わるということがわからないんですか!」
「子龍・・・」
「珠蓉、安心してくれ。彼は私を嫌っているだけなのだ、だから・・・・・・っ!?」





 どすりと背中に何かが突き刺さる音がした。
抜かれたと同時に血が溢れてくる。
何が起こったのかすぐには理解できなかった。
背に庇っていた珠蓉が、馬鹿な人ねと呟き嘲笑うまでは。




「珠蓉・・・!?」
「安心して、すぐに毒が回って楽になるわ。本当はあなたを北へ連れて行きたかったのだけれど・・・」
「北・・・?」
「そこの色男さんはご存知だったようだけど。私、あなたの人生を滅茶苦茶にしに来たの。でなければ来るわけないじゃない、こんな山奥の田舎なんか」
「なん、だと・・・・・・。まさか珠蓉、そなた」





 だから突然現れて、突然押しかけてきていたのか。
珠蓉が言う毒とやらが回り始めたのか、立っているのが辛くなる。
目の前で立ち竦んでいる馬岱の姿が二重にも三重にも見えてくる。
死ぬのか、戦場でもないこんな所で。
みっともないぞ、趙子龍。
趙雲は最後の力を振り絞り剣を横に薙ぐと、そのまま倒れ伏した。







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