月夜に恋して     2







 張遼の朝は早い。
日が昇るのと同じほどの時間に起きだし、朝の鍛錬で己の武芸を磨く。
多くの兵を率いて戦う者が、その地位に甘え軟弱にあってはいけない。
常に兵たちの先頭に立ち指揮を執るような将軍でありたい。
張遼の武にかける思いは熱かった。





「・・・さて、徐晃殿と手合わせ願おうか」





 彼ならば兵の鍛錬場にいるはず。
張遼は支度を整えると、足早に鍛錬場へと向かっていった。














































 同じ頃、もひっそりと兵の鍛錬場に立っていた。
朝早くであれば正規の兵たちの邪魔になることもないので、特別に父から許可をもらっていた。
承諾を得るまでの過程は大変だった。
武芸など必要ないと渋い顔をする父に、戦うためではなく護身のためですと言い張った。
宮中にいれば襲われる心配はないと切って捨てられかけたが、多少は体を動かさねば太ってしまうと反論した。
自分の容姿も含めて可愛がってくれていることはわかっている。
いくら太りにくい体質とはいえ、動くこともなく大人しくしていれば体に悪い。
結局はなんだかんだで娘に甘い父が折れて気分転換くらいならと許してくれたが、今のにとって武芸の時間は1日のうちの何にも優る気分転換の時間だった。
女だてらに武器を振るうことには、異母姉たちも苦笑しきりだった。
姫君らしく屋敷の奥で静かにしていられないのねと、からかわれもした。
自分が世間一般の姫君と呼ばれる娘たちと全く異なる生き方をしていることは承知の上だった。
殿方との会話でも、きっと姉たちのように男性を喜ばせるような世辞の1つも言えないだろう。
それでも良かった。己の気の赴くままに武器を握っていたかった。
上達はほとんど見込めないのだが。






「徐晃殿、私と手合わせしていただけるか」
「え・・・?」






 場内に人がいることを知り、張遼は声をかけた。
影が少し小さく見えたが、しゃがんでいるのだろう。
このような早朝にここにいる人など、徐晃ぐらいしか考えられない。
そう思い声をかけたのだが、張遼の目に飛び込んできたのは小柄な娘だった。
可憐な顔をこちらに向けてことりと首を傾げているが、右手に持っているのは紛れもなく凶器である。
なんという不釣り合いないでたち。
張遼はを見つめたまま立ち尽くした。





「おはようございます張遼殿。わたくしと手合わせをしていただけるのですか?」
「いえ、そのような・・・」
「わたくしも困ってしまいます。張遼殿と手合わせなどすれば、一瞬で殺されてしまいます」
「公主を殺めるなどとんでもない!」





 笑顔で問題発言を繰り返すに、張遼は思わず声を荒げた。
突然の大声にきょとんとしている彼女にひとしきり説教をする。
まったく、鍛錬に励もうとやって来たのになぜ朝から叱りつけなければならない。
こういうのは親の務めだろうが。
そこまで考えはっと我に返った。
まずい、よりにもよって公主を叱り飛ばしてしまった。
変な恨みを持たれないだろうか。
説教を黙って受けていたを見下ろすと、今度は驚いた顔で見つめてくる。
張遼の調子がまた狂った。





「・・・申し訳ございませんでした。公主に向かって説教など」
「いいえ、わたくしが悪かったのです。鍛錬のためにいらした将軍に冗談など口にしたのが」





 大切な時間を奪ってしまい申し訳ありませんと逆に謝ってくるに、張遼は慌てた。
冗談だと心の隅でわかっていながら説教をした自分が大人げなかったというのに、なんとよくできた娘だろうか。
身分に驕ることもなく素直に己の過ちを認めることは難しい。
君主の娘という絶対的な地位にいる者ならばなおさらだ。
決して褒められる行為をしたわけでもないに感心していると、あのと控えめに声をかけられる。






「何でしょう」
「・・・戦が近いというのは本当なのでしょうか・・・」
「えぇ。孫権軍との決戦のことならば、我々はその支度をしております」
「孫権軍・・・」
「江東の小覇王と呼ばれた孫策の弟です。代が変わって以来鳴りを潜めていましたが」
「敵は精強なのでしょうか・・・」
「周瑜という将軍がおりますが、兵の数ではこちらに分があります。それに、我らの軍はあちら以上の精鋭を揃えております」






 ほっとしたような不安なような、なんとも複雑な表情を浮かべたに張遼は眉を潜めた。
なんとなく、彼女が尋ねたいことは他にあるような気がした。
それが何なのか非常に気になるが、果たして尋ねても良いものか。
答えられることならばきちんと答え、彼女の不安を取り除けてやりたい。
張遼はなにやら物思いに耽っているに、極力柔らかな声で尋ねた。





「公主は別のことを知りたいのではありませんか?」
「・・・いいえ、ございません」
「ではなぜかように曇ったお顔をなさっているのですか?」
「戦場に赴く父や兄、そして張遼殿を初めとした将軍方の身を思えば、心配になります」





 これ以上はもう何も訊かないで。
張遼は、が目には見えない壁を作ったと感じた。
聞きたくても容易には尋ねられない理由があると思った。
彼女の手助けになれなかったことは残念だが、張遼はこの場は大人しく引き下がることにした。
やや険しさを含んだ彼女の顔を見るのが辛くなったともいえる。
張遼はにこやかに微笑むの顔の方が好きだった。






「・・・わたくしのことを案じて下さったのに色気のない返事ばかりで申し訳ございません。・・・姉上たちでしたらもっと華やかになるのでしょうが・・・」
「公主も充分華やかなお方です」
「・・・ありがとうございます。張遼殿はやはり、お優しい方なのですね」






 にこりと微笑むと、は壁に立てかけていた武器を手に取った。
きちんと手入れされている鋭利な刃物が鞘に収められる。
そんなに鍛えなくても彼女1人くらい守ることができるのに。
何が彼女を武芸へと駆り立てるのだろうか。
宮殿へ帰るべく背を向けたに、張遼は呼び掛けた。






「公主・・・! 公主はもしや、戦場に赴きたいのでは・・・?」
「・・・目的を達するための手段とあれば」





 は張遼の問いかけに澱みなく答えると、それきり無言で鍛錬場から立ち去った。
孫権軍との戦争の支度をしていることは知っていた。
本当に知りたかったのは、孫権軍の顔ぶれだった。
かつて凌統は周瑜を上司としていた。
今回の戦で周瑜が指揮にあたるのであれば、凌統も戦に出るだろう。
欲を言えば凌統本人の情報を得たかったが、さすがにそこまではできなかった。
張遼も何か勘付いたようだし、やはり武将は侮れない。
は自室に籠ると武器を見つめた。
手入れを怠らなくて良かったと心から思っていた。
すべてはこの時のために。
たとえ再会の場が戦場であろうと、もう一度凌統に会いたかった。
会って、けじめをつけたかった。このまま彼を想い続けることができるのかと、自分自身の心に問い質したかった。
国も身分も違う以上、彼とはどうあがいても結ばれない定めなのだ。
だから想いと決別するためにも彼と向き合い、過去を過去と位置付ける必要があった。
このまま心が宙に浮いた状態でいては、将来必ず迎えるであろう夫となる男に合わせる顔がなかった。
おそらく今回の戦が、凌統と会う最初で最後の機会だった。
二度と訪れない好機のためには、なんとしてでも戦場に赴く。
待っているだけでは何も変わらない。
だから我流ではあるが武芸を磨いた。兄嫁である甄姫の教えも受けて火計についても学んだ。
兵卒に紛れ込んででも戦場に行く所存だった。
別れを告げるための再会は辛いが、逃げるつもりは微塵もなかった。






「戦場で散っても構いません・・・・・・。公績様に、会いたい」






 己の認識しない華やかさが張遼の心を乱し変化をもたらしたことに気付くことなく、は戦争への出陣を父へ直談判しに行くのだった。







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