月夜に恋して     3







 久々に父と大喧嘩をした。
毎日なんだかんだで甘やかしてくれる父があそこまで怒ったのは初めて見たかもしれない。
父が怒るのも仕方がなかった。
宮殿の奥で大切に育ててきた娘が気でも触れたのか、戦場に出たいと言ったのだ。
怒り狂って謹慎を言いつけるのは当然のことだった。





「公主、あまり殿に心配をかけるようなことをしてはなりませぬ」
「・・・・・・」
「そもそも、公主ともあろうお方が武芸を嗜むこと自体がいかがなものかと思います。これを機に武器をお捨てになった方がよろしいかと・・・」
「大人しく姉上方のように良き妻となるための修行に励めと、そうおっしゃりたいのですか?」
「恐れながら・・・」





 侍女や教育係の言い分もよくわかる。
本来ならばもっと本格的に妻としての心得を学ぶべきなのだ。
今はまだ好きなことをやって過ごしているが、近いうちに必ず降嫁の話はやってくるだろう。
誰かの妻になってしまえば、今までのような勝手はできなくなる。
だから身軽なうちに悔いなくやりたいことを済ませておきたい。
は今回の戦への従軍を、最後のわがままだと決めていた。
叶うのならば、あとはどんな命にも従うと誓っても良かった。





「とにかく公主、もう武芸はお控え下さい」





 ここぞとばかりに武器も厳重に封をされ没収される。
代わりに与えられた貞淑な妻への勧めと書かれた書物を眺め、は小さくため息をついたのだった。















































 夏候惇は止むことのない曹操の愚痴を聞かされていた。
どこで育て方を間違ったのか、やはりお主のせいじゃと詰られるが、叱られる謂れはなかった。






「俺が思っていた以上に公主は芯が強いか」
「何がをあそこまで戦場に駆り立てるのか、わしにはわからんのだ。尋ねても答えぬし」
「なぜ許してやらんのだ」
「わしの可愛いに怪我などさせられるわけがなかろう!」





 じゃじゃ馬だの我が強いだの無鉄砲だのと叱り飛ばしていて、結局は親馬鹿か。
まともな理由を述べることなく駄目の一点張りで通したのだろう。
娘も娘だが、親も親だ。





「まぁ・・・・・・、他にも理由があるにはあるが」
「なぜそれを言わん。言えば公主も納得したかもしれんぞ?」
「言えん。・・・あれの母は江南の生まれだ。没落していたとはいえ本家筋はそれなりの一族だと口にしていた。
 事実かどうかなど今になってはどうにもわからんが、おるやもしれぬ親族と戦わせるのは知ってしまえば辛かろう」






 夏候惇はの母のことはほとんど知らない。
曹操の側室にどんな女がいるかなど、興味もなかった。
側室はもちろん、公主たちのことも無知に等しい。
と顔なじみになったのは曹操が幼い頃に母を亡くした娘を異様に気に入り可愛がり、常に傍に置いているからだった。
目に入れても痛くないほどに可愛がり甘やかしてきた愛娘が戦場に出たいという。
甘やかしすぎの末路だけとは思えなかったが、夏候惇は条件付きであっても何でも大体許可してきた曹操の子育ての失敗が原因だと結論付けた。
あれだけ子供がいてもまだ失敗するのか。





「もう少し公主と話をしてみるのはどうだ? このまま関係がこじれるのも嫌だろう」
「むう・・・・・・」





 ぎくしゃくしてしまった娘にまず何と声をかければいいのか言葉を考え始めた曹操を見つめ、夏候惇は密かに息を吐いた。












































 人生には後戻りもやり直しも失敗も許されない決断の時がいくつかある。
例えば仕える主を決める時や総攻撃の命令を下す時。
そして今も、二度とできない決断の時だった。
ふわりと微笑む可憐な姿に飾り気のない率直な言葉。
細身ながらも武器を振るうのは、彼女の心の中の何か確固たる信念がそうさせているからだろう。
多くの女を知っているわけではないが、今まで見てきた人とは明らかに違った。
彼女に太平の世を見せてやりたい。
張遼は、を妻として迎えたいと曹操に申し出ていた。
硬直したまま口を開かない主を見て不安になる。
誰でもいいと言っておきながら、公主だけは駄目なのか。
だが、彼女以外の妻はいらないと張遼も覚悟を決めて来ていた。
今の自分にはまだ彼女を迎えるだけの力量も功も足りないというのならば、存分に働いた後にまた頼むつもりだった。
それほどまでにいつの間にやら彼女のことを好ましく思っていた。
誰かに想われているなど、まさか公主は気付くまい。






「・・・本気で言うておるのか?」
様を妻として迎えたいと申し上げました」
「あれは一筋縄ではいかぬ女ぞ。見た目に騙されるなと言うたではないか」
「確かにお美しい方です。ですが私は、あの方の芯の強さに惹かれました」







 曹操は喜んでいいのか寂しくなると嘆くべきなのか、複雑な表情で張遼を見つめた。
どうにか仲違い中の娘への台詞を思いついていざ行かんと思っていたところの来客、そして告白である。
武将受けも文官受けも良くないような、可愛い世辞の一つも言えないが欲しいとは。
しかものあれは芯が強いを通り越して強情なだけなのだ。
間違っても戦で疲れて帰って来た夫を癒し労わることに長けた女ではなかった。






「次の戦に従軍したいと駄々をこねるような娘がいいというのか?」
「公主が戦に関心がおありだということは存じ上げております」
「・・・お主も変わった男よ。・・・良かろう、孫権軍との戦が終わって後、を嫁にやろう」





 時が来るまでは決してその旨口にするなと言われ、張遼は神妙に頷いた。
本当は彼女の気持ちも知りたいところだった。
嫌とは建前上言わないだろうが、別段嬉しいとも思わないのだろう。
公主という身分に生まれた者の定め。
たまたま相手が張遼という武将だっただけ。
そう割り切られうのは寂しいものがあったが、張遼自身も自らの置かれた身分を利用して彼女を手に入れようとしている以上、贅沢は言えなかった。
彼女がどう思っていようとこちらの想いが変わることはないのだ。
存分に愛し、慈しむつもりだった。





には戦に後にわしから伝えておこう」
「よろしくお願いいたします」





 戦場から帰還したら、今までそっけなかった彼女が急に変貌したりするのだろうか。
妻として迎えると決め許しをもらった今でも、実感はとんと湧いてこない。
張遼は曹操の前を辞すと、それきり縁談の話を封印して兵の調練へと戻って行った。








































 与えられた書物に目を通していたは、ふと顔を上げ卓上の赤い髪紐を見つめた。
凌統も、男の2,3歩後ろを静かに歩くような淑やかな女性が好きなのだろうか。
女だてらに戦場に赴き敵兵を葬るような女は嫌うのだろうか。
面白味の欠片もない書物を読んでいると気分が落ち込む。
読まずともそれなりに厳しい教育は受けているのだから、やろうと思えば貞淑な妻も物静かな女性もできるのだ。
むしろ、上質な衣がどう、紅がどうと騒いでいる姉たちよりも充分大人しいと自負していた。
髪紐を手に取り、そっと胸に当てる。
かなり使い込んだため、姫君が持つ物としては随分とくたびれてしまっている。
色だって落ちて、鮮やかだった赤は少しくすんだようになっている。
それでも、は手放そうと思ったことはなかった。
これだけは手元に置いておきたかった。
落ち込み塞ぎ込んでいる時も、少しだけ元気になれた。






、いるか」
「父上・・・?」





 思ったよりも柔らかな声で名を呼ばれ、は髪紐を仕舞い父を迎え入れた。
声音とは裏腹にぎこちない表情を浮かべている。
娘相手に何を緊張しているのだろう、乱世の勧誘ともあろう男が。





「大人しくしていたようだな、その様子では」
「はい・・・・・・」
、それほどまでに此度の戦に参加したいのか」
「はい」
「なぜか、理由は言えるのか?」





 理由など言えるわけがなかった。
かといって偽りの理由を並べ立てても、鋭い父はすぐに見破る。
しかし黙っているわけにもいかなかった。




「・・・目的を達するための手段だからでございます」
「あくまで理由は隠すか。・・・まぁよい」





 勝利の雄叫びを聞きに行こう。
曹操の言葉にはすぐには反応しきれなかった。
意味に気付き父を見上げると、条件があると付け加えられる。





「戦には連れて行く。が、戦いは兵たちに任せよ。そして帰還した暁にはわしの命を必ず聞くこと」
「父上の命とは・・・?」
「今は言わぬ。どうじゃ、これを守れるのならばわしの隣で我が軍の勝利を見届けよ」






 父の命令の内容は気になった。
娘のとんでもないわがままを聞き届けるくらいなのだから、対価もそれなりに大きいと予想できる。
しかしは迷わなかった。
戦場で運良く凌統と再会を果たし決別することさえできれば、あとはどうでも良かった。
父の命だって大人しく受け入れるだろう、すべてを清算し終わった後なのだから。





「天下に響く曹操軍の勝利、わたくしも間近で見とうございます」





 止まったままだった駒も心に秘めた想いも、ようやく動き始めた。







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