月夜に恋して     4







 孫権軍は久々の大戦を前に盛り上がっていた。
孫呉を代表する名将周公瑾を大都督として編成された水軍は、天下一の強さを誇るといえた。
兵たちの士気も高く、数はともかく質ならばどこにも負けない自信で満ち溢れていた。
策の方も周瑜や劉備軍から派遣された諸葛亮らが練っているようだし、負ける要素はどこにもなかった。
あとは、曹操の首を取るだけである。






「凌統、君には上陸を図ってくる曹操軍の足止めを頼みたい」
「わかりました。まぁ、早いとこ策とやらを実行してもらいたいんですけど」
「戦機というものがある。どんなに優れた策であっても戦機を逃せば意味はない。そう焦るな」
「わかってます。・・・まだあっちの内情わかんないんですか」
「・・・凌統、君はまだ」





 周瑜は真剣な表情で地図を眺めている凌統を見つめた。
それなりの時が経った今でも、あの姫君を忘れないでいるのか。
ほんのひと月足らずの逢瀬を今でも引きずっているのか。
移り気な性格とばかり思っていたが、実は一途だったらしい。
女遊びもやめたと聞いたし、それほどまでに彼女は凌統の心を奪ってしまったのか。
いつまでこの男は彼女を想い続けるつもりなのだろうか。
二度と逢えぬかもしれない者に想いを寄せ辛くはないのかと、周瑜は尋ねたくなった。





「女女しい奴だって笑いますか? ま、笑われたっていいんですよ、俺だって少しはそう思ってますから。
 あの子に逢って今度こそ連れて帰りたいってのが本望です。でもできないんならせめて、がどうしてるか知りたい」
「・・・相手は公主だろう? 既に名のある将やその子息らに嫁いでいるかもしれない」
「そうだったら諦めます、そこは潔く彼女の幸せを願ってやりたいですし。でも、男を憎いとは思うでしょうねぇ、知ったら八つ裂きですよ」





 撲殺の方が武器に合ってますかねと磨き上げられた両節棍をきらめかせ、凌統は不敵に笑った。
この武器も彼女との出会いを覚えているのだろうかと、ふと思う。
思いもしなかった場所で再会し、なぜだと心の中で繰り返しながらも武人としての本能から彼女に刃を向けた。
傷つけるためではないと念じていながらも振り下ろした攻撃を受け止められた時の表情は、胸が締め付けられるほどに苦悶に満ちたものだった。
誰よりも、何よりも守りたいと願い信じ続けていた存在を、よりにもよって自分が真っ先に傷つけようとしていた。
彼女が気付くのがほんの数瞬でも遅れていたら、間違いなくそのきめ細やかな肌を殴るか叩くかしていただろう。
今考えてもぞっとする行動だった。互いの運を喜ぶしかなかった。
もしも次逢う場所も戦場だとしたら、また同じ危険な場面に直面しなければならないのだろうか。
逢えることは何よりも嬉しい。
しかし、嬉しさを感じた直後に、今度こそ彼女を傷つけてしまうかもしれない。命を奪ってしまうかもしれない。
それでもなお、彼女と再会したいと願い想い続ける己が心を、凌統は頭の隅にある冷静な部分で愚かだと嗤っていた。
主君孫権や上司の周瑜からもそれなりの信頼を置かれているような者が、未だに敵国の姫君に現を抜かしているとは。
女に全く縁がないわけではないのだ。望んでも望まずとも、繋がりを求めてくる女はたくさんいた。
いい加減に諦め、現実を見据えるべきだ。
何度そう心に念じただろうか。何度彼女を忘れようとしただろうか。
忘れられなかった、忘れたくなかった、忘れてはいけない人だった。
贈られた上質の青い髪紐を手に取れば、今でも鮮明に彼女の姿が蘇ってくる。
深窓のお嬢様どころか公主だったというのに、よくもあれだけ頻繁に市場に下りることができたものだ。
自室を灰にしてしまうようなとんでもない火計を発動されて危うく焼死するところだったと陸遜からは聞いたし、思っているよりも抜け目のない性格なのだろう。
そういう、ただ大人しいだけではない芯の強い彼女が好きだった。
彼女だから愛しいと思った。
無理に想いを捨てる必要はない。彼女の代わりがいないというのならば、納得がいくまで好きな女を追いかけ続ければいい。
それで報われなかった時に初めて、諦めればいい。
いつからか凌統はそう割り切るようになっていた。
ただがむしゃらに彼女を求めるだけではなく、たとえ待ち受ける結末が凌統にとって不幸なことであっても、納得できる形を見届けたいと思うようになっていた。
共に行けないと告げられ打ちひしがれていたあの頃から成長したのだ。








「時に凌統。・・・甘寧とまた諍いを起こしたと呂蒙から苦情を受けたのだが?」
「あれは甘寧の馬鹿がいけないんですよ。俺のこと女顔とか言いやがって。俺なんかよりも周瑜様の方がよーっぽど女が「凌統?」





 ぴしりと周瑜のこめかみに青筋が浮き出る。
しまった、ついうっかり本音を口にしてしまった。
大体この軍は女顔が多いのだ。
周瑜も陸遜も、頭を使う将たちは皆中性的な顔立ちをしている。呂蒙は例外だが。
殊に陸遜など、ぼうっと見ているとに似ているのではないかと思ってしまうほどの顔立ちだ。
何度そう思い、酒宴で酔った勢いで頭を撫でたり顔に触れたりしたものか。
あの時は妙な噂が立って非常に肩身が狭い思いをした。
抱くなら女がいいに決まっているというのに、まったく。






「・・・・・・でもやっぱ、どことなく似てる気するんですよね、軍師さんと。火計使うあたりとかも」
「私に同意を求めても何も言えないぞ。背格好の問題ではないのか?」
「うわ、それ軍師さんの前で言ったらボヤ騒ぎですよ」






 壁に耳あり障子に目あり。
翌朝、周瑜宅の蔵でボヤの跡が発見された。
















































 は曹操に連れられ大船団の前へと足を運んでいた。
一隻の船に何人乗船することができるのかわからないほどに巨大な船が並んでいた。
これを何隻も並べられるくらいに長江は大きな川なのだろう。
生まれてこの方およそ許昌の都しか見たことがないにとって江南の地は、未開の地と似たような感覚しかなかった。





「どうじゃ、勇壮な眺めであろう」
「はい。これを長江に浮かべ進軍するのですね」
「うむ。お主はわしと同じ船じゃ」
「わたくし船は初めて乗ります。船酔いというものがあると聞きましたが・・・」
「なに、船同士を鎖で繋げておけば揺れることはない。移動も容易く、陸と同じ速さで戦えよう」





 は船同士を繋ぐ太い鎖を見つめた。
なるほど、あれだけ頑丈なものであれば途中で千切れることもなさそうだ。
欲を言えば父の隣でなく別の船に乗船したいと駄々をこねたいが、これを言えば父は怒るというよりも悲しくなってしまうだろう。
以前自分と同じ年頃だった姉の1人が父を邪険に扱っていた時、父は呆けたようになっていた。






「のう・・・・・・。お主の母がどのような女だったか覚えておるか?」
「いいえ、あまり思い出せません」
「わしがまだ若く天下がもっと乱れておったころ、わしはお主の母と江南の地で会った。お主に似て聡明で、可愛らしい娘だったぞ」
「では、此度の戦はわたくしにとっては母の故郷を訪ねるということになるのですね」
「かの地をわが手中に収めた暁には、父娘2人で散策しようではないか」
「それは楽しみでございます」





 戦が終われば、は張遼の元へ嫁いでいってしまう。
張遼ならばを託しても良いとは思っていた。
しかし思いはしているのだが、やはり寂しかった。
いつも手元に置きどの娘よりも可愛がってきた子がほかの男に嫁ぐのだ。
幼い小さい可愛らしいと思っていた娘も、気が付けば立派な女性になっていたのだ。
満面の笑みで娘を見送ることができるほど、曹操は娘には非情ではなかった。
夏候惇に甘すぎると言われているが、親としての曹孟徳はそんなものだと自覚していた。
だから限りある父娘の時間を後悔なく過ごしたい。
たとえ戦場であっても、だ。





「戦に向け、わたくしも武芸がより精進するよう励まねばなりませぬ」
「それはならぬぞ、それだけはやめてくれ




 いいえ、わたくしも頑張りますと可愛らしく拳を握り締める娘に、曹操は頭を抱えるのだった。







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