プロトタイプは恋をする 終
洛陽が燃え尽きた。
美しい都を灰燼と帰す必要がどこにあったのか、黒焦げとなってしまったかつての宮殿を見ても答えは出てこなかった。
反董卓連合軍は、洛陽に多方面から押し寄せた。
虎牢関では呂布が鬼神のごとく暴れ誰ひとりとして門を通すことはなかったが、呂布は一人しかいない。
悪逆非道と評される悪鬼董卓は、実のところは小心な男だったのかもしれない。
洛陽に侵入されることを恐れ、民や兵が逃げるよりも先に都のそこら中に火を放った。
肉が焼ける臭いと逃げ遅れた人々の断末魔の叫びを思い出し、貂蝉は目を閉じた。
洛陽での出来事は今でも体に染みついて離れない。
これを目の当たりにしてもなお笑い続ける董卓はもはや人ではない。
人を殺すには、およそ人ではない存在を使うしかない。
初めからそのつもりだった。
迷いも情も何もない。
「貂蝉」
「はい、奉先様」
「お前の為すべきことを為した後、お前は何をする」
「奉先様のお側に置いていただけないのですか?」
「それがお前の本心か?」
言葉を告げるより先に、呂布が宮殿の扉を開け放つ。
呂布にとってこちらの思惑などどうでも良かったらしい。
方天画戟を引っ提げ無言で董卓に歩み寄った呂布が、無造作に得物を振るう。
あまりにも自然な動きに、董卓も自らの身に何が起こったのか気付くのが遅れたらしい。
数秒の無言の後、ぎゃああと醜い悲鳴を上げ董卓が玉座から転げ落ちる。
巨体を床に転がし夥しい量の血を流しながらのたうち回っても、助けに来る側近は誰もいない。
皆、呂布の武勇に恐れ慄き遠巻きに死にゆく主君を眺めているだけだ。
無様な最期だ。
こんな男に人々は命を奪われ危険に晒され、死の恐怖に怯えていたのか。
許せない。
誰にも聞こえないように小さく零した本音に、いつの間にか隣に立っていた呂布がハハと笑った。
「貂蝉、お前にもそのような感情があったのだな」
「取り乱してしまいました」
「構わん。お前もこれからは自分のために生きろ」
「え・・・? 奉先様、まさかあなたは・・・」
呂布は、何を思いながら自分の言葉に耳を傾けていたのだろうか。
全て策だと知ったうえで、それでもなお董卓という強大な相手を倒すためだけに利用されるふりをしていたのだろうか。
利用した相手に、実は利用されていたのではないのだろうか。
他者を利用できるだけの知恵を持つ鬼神を、これからは誰が抑えるというのだろう。
董卓を倒して終わりではない。
むしろこれからが始まりかもしれない。
新たな敵と戦うべく去りゆく呂布の背中を見送っていると、呂布殿と呼ばわる声が響き渡り黒鉄の鎧の若武者が呂布の前に飛び出す。
あれは確か張遼。
彼に興味はないが、尋ねたいことは山ほどある。
貂蝉は張遼に歩み寄ると、彼の言葉に耳を傾けた。
「呂布殿、私もお連れ下され」
「好きにしろ」
「ありがたいお言葉。であれば暫しお待ちいただきたい。諸用を済ませてまいるゆえ」
「ふん、長くは待たんぞ」
「かたじけない!」
呂布の前を辞し一目散に駆けていく張遼を必死に追いかけ、呼び止める。
こちらを認めた張遼の顔色が明らかに変わる。
を返して。
貂蝉の悲鳴のような言葉に、張遼の表情が苦しげに歪んだ。
「やはりあなたがを奪ったのですね。あの子はどこにいるのです? 私の可愛いを返して下さい!」
「・・・殿はまだ生きているはず、地下牢で」
「地下牢なんて、なぜそのような!」
「やむを得なかったのだ! 私が殿を守るにはそうするより他になかったのだ! だが、董卓が死んだとなれば殿の罪が問われることもない。私は殿に逢わねばならぬ。詫びねばならぬ・・・」
それは張遼の勝手だ。
が張遼にどんな思いを抱いているのか、大切なのはの気持ちだ。
一足先に牢獄に駆け込んだ張遼の深い慟哭が虚しく響き渡る。
が囚われているはずの牢は、もぬけの殻だった。
公達殿と聞き慣れた声で呼びかけられ、うっすらと目を開ける。
ついに幻聴が聞こえるようになったのかと周囲を見回すと、松明に照らされた見知った顔が浮かび上がる。
なぜここに。
疑問が口に出るより先に、ここから出ましょうと早口で指示される。
董卓は。
その短い問いかけすら言葉にならない。
目線で気付いてくれたのか、救出に現れた親族は董卓はと言葉を続けた。
「董卓は死んだ。呂布が倒した」
「呂布が」
「洛陽は焼失し、長安は董卓の死で混乱している。この時を逃してはならぬ」
「・・・」
「思案するのは後になされよ!」
董卓の死、洛陽の焼失、呂布の謀反。
次から次に情報を与えられ、牢獄生活で鈍ってしまった頭がうまく働かない。
荀攸は半ば背負われる形で牢獄から出ると、ああと声を上げた。
自分ひとりが脱獄して、彼女はどうなる。
弱りきって言葉を忘れた娘を、このまま置き去りにすることはできない。
外に出られるなら、自分にはまだ贖罪の機会がある。
荀攸は斜め前の牢獄を指さした。
急がないととごねる親族に短く事情を説明し、固く閉ざされた格子をこじ開けさせる。
隅に縮こまっている娘の前に屯して威嚇しているネズミを追い払い、ゆっくりと膝をつく。
出ましょう。
なんと言うべきか適当な言葉が思いつかず、味気ない一言しか出てこない。
じいと無言で見つめられている。
怖がられている。
当たり前だ。彼女にとって目の前の男とは、無実の罪を被せられた極悪人だ。
公達殿と、救出隊が焦れた声を上げる。
ここに長くはいられない。
出るも出ないも彼女の意思次第だから無理強いはできないが、とにかくまずは出てきてほしい。
祈りが通じたのか、娘がゆっくりと立ち上がる。
一歩一歩踏みしめるように地上への道のりを歩く。
唐突に目に飛び込んできた日差しに眩暈がする。
久方ぶりに浴びた陽の光に荀攸は目を細め、同じく隣でぼうと外の景色を眺めている娘へ視線を移す。
顔は捕らえられた時と同じ、汚泥だらけで素肌は見えずお世辞にも美しいとはいえない。
髪も泥に塗れ、臭気も含めた世にも醜悪な姿に親族たちは一様に顔を顰めている。
非難するだけの体力も気力もない。
彼女の美しさを知っているのは今はこの世で自分だけかもしれない。
荀攸は最後の力を振り絞り、娘に手を差し出した。
「俺と一緒に来てください」
「・・・・・・」
「・・・あなたに伝えたいことがあります」
「・・・・・・」
「お願いします、俺に」
「・・・はい」
生きて出られるなんて、まるで夢のよう。
声を失っていなかった娘の姿に、荀攸は地面に崩れ落ち顔を覆った。
あのと狼狽えながら細い声を上げる娘に、気にしないでくださいと気丈に振舞う。
安堵と喜びで堪えきれず地面に零れ落ちた涙が、陽に照らされきらりと輝いた。
あとがき
董卓編終了です。これから先もずっと荀攸夢です。
「プロトタイプ」には原型や試作という意味がありますが、冒頭もタイトルも、果たして誰のことを指しているのでしょうか。
長丁場の連載になります、引き続きお付き合いください。
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