プロトタイプは恋をする     10




 裏切り者とは何だろう。
心を通わせるどころか、体すら重ねていない男が詰る「裏切り」とはいったい何を指すのだろう。
逆光を背負い暗闇に紛れ影に立つ、常に顔立ちが判然としていなかった張遼の顔を初めてまともに認識した日が、彼との別れの日になった。
ああ、文遠様はこんなに立派なお顔だったのだなと見上げ、いざ目が合った時の彼の表情といったら。
あんな顔をしていたのに、それでもなお牢に足を運び続ける彼の気持ちがには理解できなかった。
咀嚼できない思いは到底言語化することもできず、今はただひたすら黙っている。
汚物に塗れても牢に繋がれても、王允邸に仕える身の上だ。
王允や貂蝉に危険が及ぶような迂闊な真似はできない。
王允邸に身を置く女が董卓暗殺の嫌疑をかけられたなど知られれば、貂蝉の身を擲った策が崩れてしまう。
それだけは絶対に避けなければならない。
だからずっと静かに寝ている。
幸いにして、牢獄で枕を共にしているネズミとも仲良くできた。
ブンを連れて来ていなくて良かった。



(お姉様はご無事でしょうか・・・)



 姉は優しい人だ。
長安に連れ立って出かけた妹分が邸に戻らないと知れば、どんな手を使ってでも行方を探すはずだ。
知ったところでどうにもならないのに。
董卓が生きている限り牢から出ることはないだろうし、そもそも、彼の死よりも先にこちらが飢え死にすると思う。
まさか与えられるとは思っていなかった食事だが、こちらの身を齧らない代わりという交渉の元でネズミと食料を分け合っているので腹が満ちるわけがない。
最近は別室からぼそぼそと男の独り言が聞こえてくるが、彼もひょっとしたらネズミと仲良くやっているのだろうか。
食事は食べていますか、足りていますかなどこまめに会話を重ねているようだが、はて、ネズミは人語を解しただろうか。
少なくともこちらのネズミはか細くチュウとしか鳴かないが。



(まさか気が触れている・・・なぁんて)



 陽も差さない暗くじめじめとした不衛生な環境だ。
心が病んでしまうこともあるかもしれないと思いながらも、それでも、まだ生きている罪人がいるというだけでほんの少し元気が湧いてくる。
こちらなんて口を開くのも億劫になり、日がな一日ずっと黙っているのに。
罪人は実はお喋り好きなのかもしれない。
ぜひ明るい陽の下で会ってみたかった。
は硬く冷たい岩の床でごろりと寝返りを打った。
牢に入れられてどれだけの日数が経っているのか、もうわからない。
























 という女は初めから邸にいなかったと思え。
養父に淡々とそう告げられ、貂蝉は可愛い妹の身に異変があったのだと確信した。
嫌な予感はずっとしていた。
目を離した隙にいなくなったを探し回っていたところ、街外れの路地の隅で死んだブンを見つけた。
乱暴者に強く腹を蹴られ苦しみのたうち回ったようで、ブンの小さな身体は血だらけの無残な姿になっていた。
が結び付けた首輪がなければ、ブンと気付かず目を逸らし足早に去っていたと思う。



「ねぇブン、あなたのご主人様はどこに行ったの? 私のはどこにいるの?」



 物言わぬ小さな骸に問いかけても、答えは返ってこない。
たとえ生きていようと猫の言葉はわからない。
だが、に良からぬ何かがあったことだけは理解できてしまった。
張遼という若者ならの行方を知っているかも。
そう考え、すぐさま首を横に振る。
張遼は董卓軍の兵だ。
彼がを害すことはあっても、を守ることは立場上ないだろう。
ブンを嬲り殺しにしたのも張遼かもしれない。
主によく懐いていた子猫は、との逢瀬を重ねたい張遼にとっては邪魔な存在でしかなかったはずだ。
だから張遼には近付けない。
何も気取らせてはならない。
せめて父に訊けば手がかりは得られるかも。
そう思いの消息を尋ねた貂蝉は、王允の冷めた言葉を前にいよいよ色を失っていた。




「お父様、を忘れるなんてどうしてそのような酷いことを・・・!」
「先だって邸に董卓軍の兵が来た。張某とかいう男での、はこの邸の娘かと問うてきおった」
「張某・・・」
「わしはてっきりがあやつなりに董卓軍の将を抱き込んだかと思ったのだが、話を聞けばどうも訳が違う。め、董卓を襲撃する一派と接触したらしい。張某が邸に来たのはさしずめ尋問といったところか」
「そんなはずはありません! はお父様と私の策など知るはずもありません!」
「当然であろう。あれにわしらのそんな策を解すような頭があろうものか! 育ててやった恩も理解できず、楽を奏でることもできず、所詮は色香で惑わせることしかできぬあれが!」
「お父様!」
「貂蝉や、何も心配するでない。お前はお前の為すべきことを為してくれればそれで良いのじゃ。わかったな?」




 父は元々を「飼う」つもりはなかった。
美しく整った容姿の女を速やかに然るべき男の元へ送り込み籠絡させるための、手駒としてを「買った」。
浅ましい男たちは見てくれだけで女を愛でるから、に大層な教養は求められていない。
実際に楽を奏でられずとも、楽器を構える姿が美しければそれだけで愛される。
養父にとっては、愛娘が妹にしたいと願ったから仕方なしに飼い続けている犬猫と同じだ。
娘が喜ぶ顔が見たいから、妹として可愛がられているにも餌と教養を与えてやる。
も自らの置かれた歪な環境には初めから気付いていたと思う。
あの子は確かに頭はあまり良くないが、察しが良いところがある。
不興を買い殺されない際の際まで迫る胆力は、の方が圧倒的に上だ。
計算しているのかいないのか、は何も悟らせない。



「・・・わかりました、のことは頭の隅に置きます。ただ・・・、はまだ生きているのですよね?」
「張某は、どこぞに囚われているといった口ぶりではあった。まあ、捕らえたのはあやつかもしれぬな」



 信頼していた男に裏切られるなんて、なんて可哀想な
張遼よりも先にを救出しなければ、は張遼によってもっと酷い目に遭わされてしまう!
貂蝉は王允邸を後にすると、出陣前で騒然としている呂布の元へ向かった。
視界の隅に捉えた張遼が、何やら問いたげな表情でこちらを見つめていた。





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