プロトタイプは恋をする 9
にとても良く似合いそうな美しい髪飾りを見つけた。
長安に遊びに行くんですと嬉しげに話していたに渡したくて、ひと足も二足も先に出立して店をくまなく巡回し、これぞという逸品を見出した。
赤は好きとは言っていた。
文遠様の鎧もほんの少し赤かったようなと、いつまで経ってもうろ覚えの知識も披露してくれた。
とは少しずつ距離を縮めることができていると思う。
彼女がこちらを嫌がったり怖がったりしていないという事実だけで嬉しかった。
怖がらせるつもりはなくとも、董卓軍の兵というだけで人々はまずもって近寄らない。
だけだった。
何の打算もなく、鳴く壁に興味を抱いたというきっかけだけで歩み寄ってくれたのは。
「・・・私を裏切ったのか?」
「・・・」
暗くじめじめとした陰鬱な地下牢で、張遼は牢獄の隅で縮こまっているにぽつりと話しかけた。
返ってくる言葉は何もない。
泣き声も悲鳴も、ため息すらは発してくれない。
とうに事切れているのかと目を凝らすと、わずかに肩が上下していることだけは確認できた。
ひょっとしたら汚泥が溢れた桶に顔を突っ込まれたことに怒っているのかもしれない。
そうすることでしか彼女の尊厳を守れる自信がなかったと弁明したところで、今更何になるというのだろう。
董卓暗殺の罪は、未遂とはいえ死をもって償うしかない。
刑死しか待ち受けていないに、死を前にしてでも守るべき尊厳が果たしてあるのだろうか。
自分以外の手で穢され蹂躙され尽くした彼女を見たくないという、好きも愛しているも言えない頑固で口下手な男の偏狭な意地でしかなかった。
こんなことになるのであれば、董卓軍の兵らしくとっととを奪ってしまえば良かった。
董卓麾下の将という肩書を利用すれば、ほとんどの無理は無理ではなくなり押し通すことができたのに。
「私は、己も殿のことも見くびっていたようだ・・・。我が身が情けない」
「・・・」
もはやどんな言葉もに届くことはない。
牢から出しもなく見つめることしかできない。
張遼は地下牢から出ると、懐に入れたままだった髪飾りを取り出した。
地面に投げ捨て、踏み潰そうと足を上げる。
一度ならず二度までも、彼女を傷つけることはできない。
今もなお、彼女を愛しているから。
およそ叶わない願いではあるけれど、今すぐにでも牢を破りを救い出し抱きしめたいから。
張遼は髪飾りを拾い上げると、丁寧に砂を落とし再び懐に仕舞った。
斜め前の牢獄の前で、今日も若武者がぼそぼそと呟いている。
荀攸は目を開けると、静かな牢獄に唯一響く男の声に耳を傾けた。
品のない粗野な牢番と違い、彼の出で立ちは堂々としていてそれなりに名を挙げた将だと推測できる。
牢は暗くてほとんど光も差さないが、彼の向かう先にいるのが誰かは知っている。
娘が何者かはわからないが、将にとっては特別な人だとはすぐにわかった。
捕らえる際にあえて彼女の顔を醜く汚したのも、男を近寄らせないようにするため。
董卓軍は洛陽に留まらず、長安でも悪事の数々を働いている。
いくらすぐ近くに女がいようと、大抵の男が抱きたいと思うのは美しい女だ。
牢獄に閉じ込められた臭いも醜悪な醜女で手を打たずとも、外に出ればそれなりの女はいくらでもいる。
将は、恐ろしいほどに同輩の性質を熟知している。
董卓の麾下に置くにはもったいない才知だと思う。
「おのれ董卓め、董卓め、逆賊め・・・」
娘を真っ先に地面に押し倒しこちらの諫言にも耳を貸さなかった同志の喚き声が、いよいよ聞こえなくなった。
何の役にも立たないと思っていた名士の肩書きは、牢獄でこそ光り輝いた。
罪人が荀氏に連なる者と董卓は調べたのだろう。
殺さずあわよくば懐柔しようとでも目論んだのか、住環境は変わらなかったが食事だけは粗末ながらも供されている。
それは共謀者たちに対しても同じように振る舞われており、自ら望んで食事を口にしなかった者を除けばひとまずは生き永らえている。
味はさておいて、飢えなければ死は遠くなる。
清廉潔白な己を牢でも貫くのは立派な志だが、理想だけでは何も為せない。
同志と死をもって訣別したのは、心持ちが理由だった。
さて、果たして若武者の想い人は食事を食べてくれているだろうか。
荀攸は男が去った後の斜め前の牢獄へ視線を移した。
「・・・まだ生きていますか。食べ物は足りていますか」
「・・・」
生きていてほしいと、これほどまでに強く願ったのは生まれて初めてだった。
すべては自分たちの短慮が招いた悲劇で、彼女は何も悪くない。
無実の罪で牢に入れられ死の恐怖に脅かされ、これから先の人生で何を懸けても彼女への贖罪は叶わないと思っている。
彼女がこれまで築き上げてきた全てをぶち壊した。
家族と引き裂かれ、信頼していた男からも裏切り者と罵られ、美しさは影を潜め、今は言葉さえ失ってしまったらしい。
あの日わずかに聞いた声は、天の調べのように心地良いものだったのに。
彼女に名前を呼ばれたらどんなに嬉しいだろうかと、男を羨んでしまうほどに美しいものだったのに。
何もかも奪ってしまった。他の誰でもない、この荀公達が。
「もし、あなたが救えるのなら俺は」
董卓に心を売ったって構わない。
そう言いかけて、はっと我に返る。
慌てて周囲を見回すが、誰もおらず胸を撫で下ろす。
今、自分は何を言おうとした?
それほどまでに彼女に何らかの感情を寄せている?
荀攸の視界の端で、もぞもぞと黒っぽい塊が動く。
牢獄の娘が、白いほっそりとした腕を食べ物に伸ばしていた。
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