プロトタイプは恋をする     8




 呂布という将を初めて間近で見た。
人を人とも思わぬ膂力に任せた振る舞いをする横暴な将だと聞いていたが、貂蝉と語らっていた彼は決してそうは見えなかった。
赤兎馬の蹄鉄を渡され、僅かに笑んでいた呂布はどこにでもいるただの男だった。
世の人々は、董卓軍の兵は粗暴で残虐な獣と言う。
だが出会った張遼はそれら噂とは対極にいる礼儀正しい兵で、呂布にも理性がある。
思ったよりもいい人たちなのかも?
は貂蝉と呂布から視線を外すと、腕の中のブンに話しかけた。



「今日はこの後、文遠様が長安を案内して下さるんですって」
「にゃあ」
「ふふ、ブンも楽しみ? そうよね、だって文遠様はブンの命の恩人だものね」



 任務が終わればすぐにでもと張遼は言っていた。
董卓軍と懇ろになるつもりはないしそれら命令も受けていないが、張遼個人とであれば穏やかに付き合えると思っている。
彼はこちらの要領を得ない会話にもじっくりを耳を傾けてくれるし、誠実な振る舞いを見せてくれる。
絶世の美女として一躍有名となった姉に不遜な視線を向けることもなく、呼び慣れてしまったからという理由で字で呼び続けても嫌な顔ひとつしない。
男たちとそれなりに関係を持ってきた身だ。
肌を重ねずとも相手の気性はなんとなくわかる自信がある。
そうでなければ、とっくの昔に不興を買って殺されている。
長安の見慣れぬ景色に興味を持ったのか、もがいていたブンを地面に下ろしてやる。
にゃんと鳴いた直後路地に向かって駆けていくブンを視線で追う。
人通りの少ない道を歩くのは気を付けろと様々な人々から言われ続けているが、ここは洛陽ではないので董卓軍の兵も多くはないはずだ。
とりあえず姉に散策すると伝えておこう。
は再び貂蝉と呂布へ向き直った。
お姉様と声をかけたいが、仲睦まじく語らっている姿を見ると自分が邪魔者としか思えなくなる。
詳しいことは王允が言わないので何も知らないが、董卓と呂布の間で活動している聡明な姉だ。
事情を理解できていない部外者が余計な口を挟んで計画を歪ませるのは避けたい。
こちらからの熱烈な視線に気付いたのか、貂蝉と目が合う。
お姉様、お仕事の顔をしていらっしゃる。
は笑顔で小さく手をふると、ブンが消えた路地へ足を向けた。



























 呂布が長安にいる。
同志から報告を受け、すうと小さく息を吐く。
今まさに、洛陽にいるはずの董卓の護衛は手薄になっている。
呂布がいれば返り討ちに遭うが、彼がいなければ勝算はある。
だからこれから董卓を襲う。
よろしいかと同志に問われ、荀攸は行きましょうと短く答え立ち上がった。
董卓の圧政から逃れるため、一族は皆郷里に帰り息を潜めて暮らしている。
董卓自身も民心を得ていないことを理解しているようで、名士と呼ばれる人々を招聘し高官に就ける見え透いた懐柔策を行なうようになった。
国を憂うことはあれど、逆賊に貸す力はないという一族のささやかな抵抗ゆえの隠遁だ。
もちろん、董卓のためではなく漢室や民のためと出仕する名士たちを責めはしない。
そうすることで暴虐が少しでも弱まり苦しむ民が減るのであれば、知恵も権力も存分に振るえばいいと思う。
力を発揮することができるならば、だが。
お飾りの役職では何も救えないと、長安で潜伏生活を続けていた荀攸は諦念をもって日に日に窶れていく表情の人々を見つめていた。



「呂布が長安にいるということは、今が董卓暗殺の絶好の好機かと」
「おうとも! いざ我々が逆臣董卓を討たん!」
「にゃあ」



 意気軒昂に逆賊暗殺の拳を振り上げた直後、どこからともなく猫がするりと路地に迷い込んでくる。
人馴れしているのか大勢の人間に囲まれても逃げも隠れもしない猫が、にゃんと鳴いて大きく欠伸する。
どこにいるの、ブン。
猫を追いかけていたらしい若い娘が、猫より先に物騒な得物を手にした男たちを視界に入れて目を見開く。
あなたたちは。
そう呟いた後に悲鳴を上げようとしたのか、口を開いた娘を仲間のひとりが地面に押し倒す。
ただ迷い込んだに過ぎない一市民に無体を働くのは控えるべきでは。
そう言おうとして、結局は口も手も出なかった己を荀攸は恥じた。
いまだかつて見たことがない、太陽に照らされた麦のように明るく輝く娘の髪の色が眩しい。
髪だけでなく彼女そのものが、天が遣わした仙女のように眩しく見えた。




「なんだ貴様、どこから嗅ぎつけた!」
「私はただブンを・・・」
「知られたからには生かしてはおけぬ、であろう荀攸殿!」
「いえ、そこまでせずとも」
「た、たす「董卓殿を弑そうと企てたのは貴様らか!」
「くそ、もう見つかったか。やむを得ん、こうなれば押し通るまで」
「張文遠の武を止められると思うてか!」
「文遠様・・・?」
「なんだ、雑魚どもばかりか。つまらん。張遼、お前に任せる」
「は、お任せあれ!」




 騒ぎを聞きつけたのか、あるいは初めから泳がされていたのか、間もなく現れ呂布を初めとする武将たちに囲まれる。
やはり娘が手引きしたのだろうかと一瞬疑うが、地面に倒れた娘を見下ろす董卓軍の目はどれも冷ややかで侮蔑的だ。
であれば、彼女は紛れもなくたまたま居合わせてしまっただけの気の毒な民だ。
せめて彼女の身の潔白だけは証明せねば、彼女も董卓に反逆した大罪人となり良くて投獄、最悪殺されてしまう。
荀攸は、仲間に引き倒されたままの娘へ駆け寄ろうとした。
武人でもなんでもない男の覚束ない足取りは、董卓軍の将にあっけなく阻まれ娘への接近を拒まれる。
殿、なぜここに。
娘の前に跪いた近付いた将が苦悶の表情で呟き、一瞬の躊躇いの後、あまりにも美しすぎる彼女の顔を手近にあった汚泥入れの桶に突き入れる。
泥と醜悪な臭いにまみれたかつての美女が、ううと嘆いたきり黙り込む。



「・・・反逆者どもを牢へ引き立てよ!」
「待ってください、彼女は違います」
「逆賊の戯言に耳を貸すとでも? 疑義があるなら牢で聞こう」
「・・・ブン」



 美女の本当の姿を知らない加勢で現れた兵たちが、顔を顰めながら罪人たちを牢へと連れて行く。
娘を見送る将の苦しげな顔がすれ違いざまに見え、荀攸は小さく息を吐いた。





Back  Next

分岐に戻る