このくらいのお弁当箱に




 人使いの荒いご近所さんだなと思いながらも、根っからの平民気質のオレは断ることすらしない。
そう、オレは元は平民だ。
今でこそ穎川の荀氏の一族になってしまったけれど、元を正せば親から名前すら授けられなかった極貧の民だった。
だからオレにとって平民のふりは、名士の服を着るよりも容易いことだったりする。


「というわけで成都に行ってくる。悪いけど留守をお願いしてもいいかな」
「自分も同道したく」
「一応は潜入任務だから、鄧艾殿を危険に巻き込むようなことは避けたいんだがなあ」
「危険があるのであれば尚のこと、単身敵中深くに潜ませるのは危険が過ぎます」
「うーん、それとほとんど同じことをさっき司馬師殿も言ってた」


 オレってそんなに頼りないのかなと冗談めかして言うと、鄧艾殿が大きく頷く。
他意はなく純粋にオレの身を案じてくれてるんだろうが、だからこそ不甲斐なさを認められているようでそこそこ傷つく。
司馬師殿の発言だけなら父親に対する遅れた反抗期かもと捨て置いていたが、同じことを別人に言われてはオレも放っておくわけにはいかない。


「実は、成都に行ったら見てみたい男がいるんだ」
「やはり諸葛亮・・・」
「それはもう知ってる。諸葛亮の部下で、馬氏の五常て呼ばれてる才子揃いの兄弟がいるんだよ。オレらが相手するのはそういう連中だろ」
「さすがです、自分はそこまで思い至りませんでした」


 ただの平民、旅人ごときが軍の中枢に近い場所にいる奴らと接する機会は無きに等しいだろう。
それでも、彼の周囲の人物から人となりを聞くことくらいはできるはずだ。
いくら才子とはいえ、完璧な人はいない。
あの司馬懿殿にだって隠しておきたい秘密、もとい隠し子はいる。
あろうことか諸葛亮が育てている。
オレはなんでも知っている。
知ろうとしていないのに勝手に話が集まってくる。
そういう家だ。
それを見越してさも公務のように命じてくるんだから、司馬懿殿は本当に人が悪い。
















 いとしい人がいる。
その人は自分が敬愛する上司夫妻が誰よりも何よりも愛していて、国中の将たちからも妹や娘のように可愛がられている、とても素直で明るくて利発な人だ。
上司とともに政務に励むうちに、政庁に訪れる彼女とも接する機会が増えた。
かわいい人は、いとしい人に変わった。
愛しいと思ってしまった自身を恥じ、率直に自らの罪深さを彼女の父親に等しい丞相に打ち明けた。
そうして逆に突き付けられたのは、彼女の素性だった。
それでもあの子をいとしいと思ってくれますかと尋ねられた。
驚きこそしたが、迷いはなかった。
次に会った時も変わらずに彼女はいとしい人だった。
愛しいと伝えたいが、今はまだ心に留め置いている。


「何探してるんだ? 箱? へえ」


 いとしい人に作ってもらう料理を詰めてもらう箱を選別している時、突然青年に声をかけられた。
いい品が揃ってるんだなと話を続ける青年の横顔をちらと見るが、心当たりはまったくない。
見てくれこそ旅人を装っているが、仕草は恐ろしく洗練されている。
どこぞの密偵かとも思ったが、そう決めつけるだけの根拠はない。
オレの顔が気になる?
くるりとこちらを顧みた青年が、にっこりと品良く微笑む。
疑念もまるごと包み込むような笑顔は、ひたすらに穏やかなはずなのに凄味すら感じる。



「貴殿、私に用でも?」
「これは失礼。実はオレも土産を探していてね」
「ほう、どなたに?」
「そりゃいい人に決まってるでしょう。箱、いいですね。でも空箱はいけません」
「いけない? 理由は?」
「空の箱は障りがある・・・てのがオレの一族の金言で」
「聞いた覚えがないな。ご出身は?」
「潁川。ま、うちの家訓はさておいて、せっかくいい子に渡すんなら詩歌の一節でも入れた方が男ぶりが上がるってもんですよ」
「・・・考えておこう」
「ええ、ぜひ」



 にこと微笑んだ青年が、何を買い求めるわけでもなく手ぶらで店に背を向ける。
やはり目的があって敢えて近付いてきたらしい。
つまり相手はこちらが何者かをわかった上で堂々と接触してきた。
大胆不敵、面白い。
遠ざかる背中に向かって声を上げる。
立ち止まった青年に、今更ながらに誰何する。


「ま、誰でもいいじゃないですか。知らない方が戦いやすいですよ」
「貴殿は私を知っているのに?」
「箱の話は本当ですよ」



 あれほどに底の知れない男はかつて見たことがない。
北伐では、あれらを相手に戦うこともあるのだろう。
さて、箱には何を詰めようか。
悔しいが、あれが言っていたことはおそらく正しい。
もっとも、いとしいあの人は甘い言葉よりも甘い菓子に目を輝かせるのだが。
いい品ですねと、青年が目を細めていた箱を手に取る。
この店一番の高値を誇る逸品で、また悔しい気分になった。




「青年」は誰でもない人なので特に意味はないです



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