飛び出た先は箱庭の中




 さすがと感嘆すべきか、情けないと嘆くべきか、あるいは許せぬと憤るべきか。
引き留めるどころか押し切られ、片膝をついてしまったまま眼前の娘を見上げる。
箱入りの姫君は、邸の中で日がな一日鍛錬に明け暮れていたのだろうか。
そうとしか思えない武技、立ち居振る舞い、体力だ。
止めを刺さないのは彼女が夏侯一族の姫で、こちらが主君たる曹操の娘だからだ。
誰の何でもない名もなき存在なら、今頃とっくに絶命していた。
情をかけられてしまった。
何を血迷ったか劉備軍と合流しようとする夏侯淵の縁者を止めようとし返り討ちにあったは、呼吸を整えるとなぜ、と短く尋ねた。



「ご自分が何をなさろうとしているのかおわかりですか? 妙才おじ上に刃を向けることになると知っての所業ですか」
「も、もちろんわかっています。すべて覚悟の上です」
「劉備軍の何があなたを惹きつけるのか、わたくしにはわかりかねます」
様にはわからないと思います・・・。決められた人と決められた道を進むことを決められている様にはずっと」
「それは一体どういうことでしょう」
「・・・様を傷つけるつもりはありませんでした。その、ごめんなさい・・・!」



さようならと言い残し走り去っていく夏侯姫を追いかける余力もなく、のろのろと立ち上がる。
公主に対して最後の礼儀を示したのか、随分と手加減をしてくれたらしい。
夏侯惇を師と仰ぎ護身術として自分なりに鍛錬を積んでいたつもりだったが、まったく歯が立たなかった。
情けなさと悔しさと僅かばかりの痛みで、立ち竦んでいると体が熱くなる。
出奔した娘を為すすべなく見送っていると、遠くから殿と大きな声で呼ばわる声が聞こえてくる。
あれは夏侯淵の声だ。
縁者の娘を止めることができなかったと彼に謝って、それで許してくれるだろうか。
は重い足を引きずり、夏侯淵たちの元へ向かった。






























 身を縮ませた夏侯淵から平伏され、どうすればよいのかわからないらしいが狼狽えている。
曹操は夏侯淵の肩をとんと叩き立ち上がらせると、へ向き直った。
見た限りでは大怪我をしたようには見えないが、どうやら愛娘は夏侯淵の姪に軽くあしらわれたらしい。
申し訳ございませんと小さな声で謝罪するの口元は、悔しげにきつく結ばれている。
相手は武門の誉れ高い夏侯一族の娘だ、持って生まれた才が違うということもある。
だが、そう慰めて納得する我が娘ではない。
の周囲も、仕方がないで済ませることはおよそできない人々ばかりだ。
現に張遼はよりも悄然としている。
自分の目が届かないうちに守るべき貴人が負傷したのだ、許せるわけがないのだろう。



「夏侯淵の姪はおぬしの手には負えなんだか」
「まったく歯が立たず、お止めすることもできませんでした。我が身ながら不甲斐のうございます」
「いやいや公主のせいじゃありませんって。あろうことか公主に怪我まで負わせちまうなんて、お嬢何やっちまってんだ」
「わたくしの力が及ばなかったゆえの負傷です、妙才おじ上が気に病むことではございません」
「俺の教えが温かったようだな」
「惇兄ぃのせいでもないんだよな、これが」
よ、怪我の程度はどうじゃ。許昌に戻るか」
「いえ、擦り傷と打ち身にすぎません。これしきの怪我、騒ぐほどではございません」



 医者にも診せましたと経過を報告するに、そうかとだけ答える。
本人が無事と言っているのであれば、これ以上とやかく言うことはない。
今更下手人を追うこともできず、無論、負傷の責を誰かに負わせるわけでもない。
それで良いなと張遼にも念押しをすれば、張遼も渋々頷く。
しばらくは張遼の監視から逃れられない窮屈な生活を送ることになるだろう。
仕方がないとはいえ、親としても娘が傷つくのは見たくない。
身内がを襲うわけがないと高を括っていたのはこちらの落ち度だ。
夏侯淵の姪はおそらく二度と故郷には戻らない。
その見極めができず無闇に引き留め刃を交えたは、紛れもなく世間知らずの狭い世界で生きる箱入りの姫君だった。
が悪い影響を受けなければ良いがと、今ではそちらの懸念が燻っている。
出奔した娘がに余計なことを言っていないか問い質そうとしてやめたのは、そうすることによってが気付かなければよいことに気付いてしまうのを危惧したからだ。
はこの戦が終われば、父の命じられたとおりに張遼に嫁ぐ。
それがに次に示される道だ。
公主としての立場を理解しているは、断るという選択肢すら知らないだろう。
そうなるように誰も彼もが育ててきた。
彼女に与えられた自由とは「自由」ではなく、定められた範囲の中で許された「融通」なのだから。



「父上、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「うむ、申せ」
「あの者は、わたくしには決められたものしかないと仰っていました。何を意味するのかわかりかねましたが・・・」
「おぬしも出奔に唆そうとしたのであろう。忘れよ」
「かしこまりました。ふふ、わたくしが赤壁に来たのはわたくしが願ったからというのに、おかしなことを言うものです」



 それすら父の思惑の範疇を出ていないのだと、は知る由もない。
曹操は腕を擦りながら見上げてくるに、小さく笑い返した。




それはまだ、長江が燃える前のお話



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