終わりを見るのは2人きり
成都でもっとも強固に造られているはずの宮殿の奥深くからでも、激しい戦闘音が聞こえてくる。
城外で攻防していたと報告では聞いていたが、情勢は悪化しているようだ。
意外だとは思わない。
兵力でも国力でも劣っている蜀が魏に勝てる要素はあまりにも少ない。
これまでは天険の要塞に支えられていたが、一度山を越えられ侵入路を確立されては、守ってもらうはずの山が死角となり迎撃に後手に回る。
魏軍の一隊が、およそ予想もできなかった地から湧いて出たと聞いた。
本来であれば迎え撃つはずの守備隊は、神出鬼没の魏軍に恐れをなし戦わずして降伏したという。
死ななくて良かったと安堵してよいのか、蜀の兵なら死してもなお戦うべしと激昂すべきか。
前者を思うことは許されても、口に出してはならない。
なぜなら、この身は皇帝だから。
皆、蜀帝が目指しているという仁の世のために戦い、命を散らしているのだから。
「陛下」
「おお、か。よく来てくれたなあ」
親衛隊として常に傍にいた星彩も、今や成都市街に突入した魏軍と交戦するため表へ出ている。
平時は遜り居並んでいた宦官たちも姿を消し、広間にいるのは独りだけだ。
入ってもいいですかと、入口でが佇んでいる。
おいでと声をかけると、たった1人で現れたがとことこと歩いてくる。
広間の中ほどで立ち止まったに再度、おいでと呼びかける。
一瞬困った表情を見せたが、小さく頷き隣まで歩み寄る。
部屋の奥から引っ張り出してきたのか、の手には古びて毛羽立った羽扇が握られている。
諸葛亮のお古かと尋ねると、は硬い表情で首を横に振った。
「私の母の形見だそうです。私はこれしか持っていなかったらしくて」
「大切な物なのだな」
「陛下、ごめんなさい」
「どうしてが謝るのだ。ここまで来るのも怖かったろう、怪我がなくて良かった」
どんな道を通ってきたのか、何を見てきたのか、の頬についていた返り血を袖で拭う。
の血でなくて良かった。
心の底からそう言うと、が悲しそうに顔を歪める。
司馬一族とは諸葛亮の生前から長きに渡り戦い続けてきた。
だがは一度も悲しむことはなく、政治や軍事に口を出すこともなかった。
だからといってが何も思わなかったわけがない。
彼女なりに、いや、彼女だからこそ様々な事象に胸を痛めていたはずだ。
細い体の繊細な心で押し留めていた感情が、ついに溢れ出してしまっている。
受け止められるだろうか、この手で。
劉禅は己が手を見下ろした。
を守るにはあまりにも頼りないように思えた。
「魏軍はもう近かったか?」
「はい」
「そうか・・・。皆、傷ついていただろう」
「はい」
「もう、戦いを終わらせても良いだろうか」
「それを訊く相手は私でいいんでしょうか」
ここを訪ねてからずっと、の表情が冴えない。
戦いのせいだ。
が何を思ってやって来たのか真意はわからない。
来てほしいと思っても、伝えても、遠慮をして自ら訪ねることはほとんどなかった思慮深い女性だ。
今日あえて来てくれたのは、今までにはない彼女の決意があったからだと感じていた。
で良いのではない。
でなければ今日の決断はできない。
北伐の成功と仁の世の到来を目指し続ける彼らを前にしては、皇帝としての決断を告げることを躊躇ってしまう。
戦い続けることを望んでいる姜維たちに戦うなとは言えない。
聞いてもくれないかもしれない。
しかいなかった。
「鄧艾から何度も降伏を勧める書状が届いている。民や兵の命は保証してくれるそうだ」
「陛下は?」
「私のことはどうでもいい。仁の世のために戦うよう命じたのは私だ」
「陛下あっての蜀です、そんなこと言わないで下さい」
「は優しいなあ。別れるのが惜しくなってしまう」
「私は陛下のお傍にいます」
「それだけはいけない。私の傍にいればに危険が及ぶ」
「陛下に危害を加えようとするなら、私が盾になります」
「、できないことをできると言ってはいけない。もう、そういうのは充分だ」
「できます。・・・あのね劉禅様、昔、狼藉者を焦がしたのは趙雲様じゃないんです。本当は私がやったの。武器も焼失しちゃうような威力でばりばり〜って」
「そうか、だったのか。私は趙雲を褒めてしまった」
頼もしいなあと朗らかに笑えば、もようやく微笑む。
だから私をお傍に置いて。
思わず頷きたくなる戦場に場違いな蕩けるような笑みで問いかけられ、笑みが固まる。
今日が今日でなければ、きっとその誘いを心ゆくまで堪能していた。
遠い昔、国のために投げやりになっていたを守るために包みこんだ言葉が、今では鎖となってを縛りつけている。
すべての報いが今日に繋がる。
何もかも、こんなつもりではなかったのに。
「、この国はどうだったか? 楽しかったか?」
「はい、とっても。私、諸葛亮様と月英様に育ててもらって良かった。陛下が主で良かったです」
「私も、がいてくれて楽しかった。ありがとう、国を守れない暗愚な帝ですまない」
「こちらこそ、何のお役にも人質にもなれなくてごめんなさい」
人質になるには好かれすぎちゃいましたもんね。
の照れくさそうな笑みに、劉禅は大きく頷いた。
そして本編「後」へ続く