2人ぼっちになれやしない




 月英様の後ろについて庵の片付けをして、饂飩とやらを捏ね、牛馬と戯れてばかりだった私に客人は突然やってきた。
あなたが噂のと、何ひとつ心当たりのない噂とやらを引っ提げて現れたのは、孫呉の軍事を預かる陸遜という将だった。
孫呉で語られる私の噂とはいったい。
建業に遊びに行ったのは最近ではなく、江陵はおろか荊州に逗留するのは今回が初めてだ。
ましてや私は陸遜なんて将は知らない。
名前は聞いたことがある気がするけど、知り合いではない。
月英様とひとしきり言葉を交わしている陸遜殿を、隣の部屋から失礼にならない程度にちらちらと眺める。
何度目かの横目に、陸遜殿がにこりと微笑み返す。
昔は大層顔が良かったのだろうと想像しやすいお顔で微笑まれ、こちらも余所行きの笑みで応える。
初対面の陸遜殿には大変申し訳ないんだけど、彼の微笑みに怖いと思ってしまった。
冗談が通じなさそうな気難しい性格をしていると見た。



殿・・・と伺っています。お噂はかねがね」
「心当たりはないですね・・・」
「諸葛亮殿の秘蔵っ子と聞いています」
「姜維殿と間違えてると思います・・・」
「彼の名もまた聞きますが、なるほど、確かに控えめで慎重な方のようですね」



 褒められるのは嬉しいけど、ちょっとだけ不安になる。
値踏みをされているような、覗かれているような。
月英様が不安感と不審感を感じ取ったのか、私を見つめていた陸遜殿の視線を遮り口を開く。
ご用件はと問われ、陸遜殿がぽんと膝を叩く。
どうやら本当に私に用があったらしい。



「せっかく遠路はるばるいらしたのです。諸葛亮殿の神算に触れてみませんか?」
「ここでですか?」
「石兵八陣をご存知ですか?」
「ご存知です!」
「この辺りにあるので、もし良ければご案内しましょうか?」
「陸遜殿、それは」
「かつて私はそれを突破したことがありますし、ましてや今は戦時中でもありません。伏兵もいないとなれば、奥方が案じるようなこともないと思いますが」



 石兵八陣、もちろん知っているに決まってる。
趙雲様や馬超殿、馬岱殿から聞いたことがある入り組んだ道だ。
諸葛亮様は孫呉との間で戦いになること、そして蜀が苦戦することすら見越して事前に陣を敷いていたという。
陸遜殿が陣を突破していたとは知らなかった。
会っていきなり苦手だと思ったのはこのせいかもしれない。
月英様は渋い顔をしている。
面と向かって断れないのは、国と国との関係性を考えているからだろう。
心配だから断る、危険だから断る。
どんな断り方をしても、蜀は未だに呉を信用していないと疑われかねない。
同盟国に不穏な空気を漂わせてはいけない。
ここはひとつ、私の生来の好奇心で同盟強化に貢献しようではないか。
呉だって私を危害に加えたら蜀に申し訳が立たないだろうし、陸遜殿が言うとおり、そもそも今はただの隘路で危険性は限りなく低いはずだ。
向こうが打算ありきでくるなら、私だって受けて立つ。
私は甘えた性格はしてるけど、足腰と根性はしっかりしている自負がある。



、どうしますか。かの陣は足元も不安定で、私としては心配もあります」
「せっかくなので行ってみたいです! あ、でも私の体力が不安だから入口くらいでいいです」
「そうですか・・・。陸遜殿、をよろしくお願いします。この子は弱音を吐かないので、くれぐれも」
「お任せください。では行きましょうか」
「え、今から?」



 断られるとは端から考えていなかったんだろう、あまりにも準備が良すぎる。
同行するのは陸遜殿と従者、私も含めて3人だ。
私に戦う力はないから、相手が何人いようと相手がその気になれば私はあっという間に死んじゃうんだけど。
こんなことなら私も随伴を引っ張ってくれば良かった。
そしたら寂しくも居心地悪さの再来もなかったのに。
陸遜殿に促され車に乗る。
月英様と一緒に行きたかったなあとぼやくと、陸遜殿が小さく笑った。




「ところで私のことはご存知ですか?」「ご存知でないです!」「元気で素直でよろしい」



Back  Next

分岐に戻る