櫓からも君が見えない




 おそらく、出会った初期の頃から惹かれていて好きだったのだ。
冗談のように焼きもちかと尋ねられ真っ向から違うと否定したのも、図星だったからだ。
丞相以外に何の後ろ盾もなかった青二才の降将を、特別な色で混ぜることなく接してくれたのはだけだった。
丞相を喪い、年月を経るごとに北伐へ否定的な意見が多く寄せられていく宮中でも変わらぬ態度でいてくれたのはだけだ。
決して諸手を挙げて賛成してくれるわけではなかったが、忌憚のない意見を述べてくれるの存在はどんどん大きくなっていった。
気付けば彼女しかいなかった。
あなたはかけがえのない人になってしまったんだ。
そう思い切って告げた時でさえ、やめといた方がいいからごめんねとあっけなく振られ失恋した。
それはそれとして何事もなかったかのように変わらず傍にいてくれるのが嬉しいような苦しいような、なんとなく居た堪れなくて引き留める彼女を成都に残し迎撃に出たらこれだ。
今や成都にも魏軍が侵入しているという。
丞相の麾下として長らく働いて生きて裏も表も知っているが襲われる可能性は少なくはない。
彼女を人質に取られると、自分もどうなるかわかったものではない。
姜維は立ちはだかる魏軍を薙ぎ払いながら、が避難しているであろう宮殿へ駆け込んだ。




殿、無事か!?」
「あ、姜維殿? もう遅いんだからー、さすがに今日の遅参は姜維殿史上最悪と思う。私でもすぐに参内したしね。でもってまずは陛下の心配をしてあげて」
「すまないな、世話をかける」
「いいえいいえ陛下はお気になさらず! 私なんかでもいた方が盾くらいにはなれますし、ここはどーんといつもの陛下らしくのんびり構えてましょう!」
「はは、は本当に変わらないなあ」
「今から変わる展開はもうないですしね」
殿、何を言ってるんだ。私たちも駆けつけた、今から蜀軍は反撃に出る!」
「姜維殿こそ何言ってるの? これから戦うって、誰が、どこで? まさか成都で? 姜維殿もさすがに見えるようになったでしょ、今の成都っていうか蜀を」




 ここらが潮時だと思うんだけどな。
そうぼそりと呟かれた言葉に、劉禅もこくりと頷く。
何が潮時かなどわかりたくもない。
劉禅が静かに名を呼ぶが、返事すらしたくない。
彼が次に何を言うのかうっすらわかっているから、不敬とわかっていても無視をしたくなる。
なぜが唆すのだ。
が何も言わなければ劉禅は気付かなかったかもしれないのに、彼女はいつから変わってしまったのだ。
自分と同じく主戦論者ではなかったのか。
大事な話なら私抜けるんでと、いつものように軽やかに宮殿を後にしようとするの腕をつかむ。
大事な話だから今日こそは一緒にいてほしい。
そう懇願すると、だからこそ無理と即答される。
彼女はいつもそうだ、国家の行く末を決める重要な会議には一度も顔を出さない。
そして今日も劉禅は何も言わない。
まるでそれが当然とでも思っているように、ありがとうと言っただけで送り出してしまった。
何も知らないのは自分だけ。彼女はいったい、何なのだ。



「聞いてくれ、姜維。私はーーーーーー」





































 いっけなーい遅参遅参!
今日を逃したらもう当分ないとわかっているから早起きしたつもりだったんだけど、さすがに私にも未練はあるから懐かしの街並みを散歩してたらいつの間にか出立の時間だった!
慌てて城外へ出ると、善良な成都の民の皆さんが一心不乱に石を投げている。
もしかして虎だろうか、いやでも虎に立ち向かうほど屈強な民ではなかったようだ。
民たちが石を投げつけている先には、星彩殿に付き添われた陛下もとい劉禅殿がいる。
民の気持ちもわかるが、それを投げる相手は劉禅殿よりもっとぴったりな人物が遅ればせながら今来たのだから変えてほしい。
私は迷うことなく劉禅殿と石の間に飛び込むと、おはようございますとひときわ大きな声で挨拶した。
絶妙な間で石が背中に当たる。
たまたま大きな石だったのか、割と痛い。
何やってるのちゃん、退いてちょうだい!
血相を変えて石を投げることに専念していた見知った顔のおばちゃんが一瞬正気に戻ったけど、生憎とその正気はすぐに狂気か殺気に変わると思う。
初めに狂気に侵されたのが誰なのか、今になって思えばひょっとしたら諸葛亮様だったのかもしれない。
諸葛亮様がどんな思いで私を引き取り育てたのか、それは今でもわからないままだ。




「劉禅殿、今から洛陽にご出立ですよね。私もご一緒していいですか?」
「おお、そうか。旅は大人数の方が楽しい。もぜひに」
「ありがとうございます!」



 石の襲来から逃げるように粗末な馬車に乗り込み、洛陽へとのんびりと走り出す。
星彩殿に手当てをと言われたが、ぶつけられた場所は背中なのでさすがにここでは見せられない。
それにこれは民の思いだ。
劉禅殿が一生懸命受け止めた拳の硬さと同じように、私も私で引き取るのが務めだと思う。



「先日、司馬昭殿に会ったのだ。とはあまり似ていなかったな」
「そうですか。一度も会ったことがない兄なんで思い入れは何もないですね」
殿は司馬懿・・・お父上にお会いしたことは?」
「ないんじゃないですかね。司馬昭殿の母上が大層悋気が強い方だったそうで、知れて処される前に慌ててその辺の軍師に預けたら、その軍師も何を考えたのかなぜだか諸葛亮様に渡したそうです」
「親の顔を知らないとは、辛くはないのか?」
「まあ、一度くらい北伐に紛れ込んで諸葛亮様に見せてもらえば良かったかも。諸葛亮様、見せたら私は向こうに行っちゃうって思ったのかな。そんなわけないのに、もっと自分の子育てに自信持ってほしかった」
「諸葛亮から聞いてはいたが、大変だったのだなあ」
「私は楽しかったですよ、蜀で育ててもらって良かったと思ってます。だってほら、私ってば全然頭が良くないから向こうにいたらきっと肩身狭かったろうなあ」




 姜維殿は今、どうしているだろう。
今になって思えば、彼が掲げていた「大志」は、初めから劉禅殿や諸葛亮様が目指していた「大志」とは違っていた。
なんなら北伐の意味すら違っていた。
北伐は、目的ではなくて手段なのだ。
けれどもいつからか姜維殿の目的は北伐を為すことへすり替わってしまっていて、それに気付いていたのは果たしてどれだけだろう。
劉禅殿が国主としてどれだけ言葉を尽くしたところで、姜維殿はきっとその思いを汲み取ることはできなかっただろう。
現実は劉禅殿は言葉が少なかったし、姜維殿は想像以上に北伐への思いが強かったのだけれど。
私が私の立場でなくても、結果は変えられなかったように思う。
私が姜維殿の真っ直ぐすぎる好意を受け入れていたとしても、私も同じように引きずり込まれるか、あるいはもっと早くに音を上げていたかもしれない。
音を上げていた私がどうしていたか、それを憶測するのはやめておく。
軍師でも戦略家でも何でもないただの馬鹿で凡愚な私にその計算はあまりに残酷だ。




はこれからどうするのだ?」
「劉禅殿と星彩殿の無事は見届けたいです。その後は、洛陽の居心地はとてつもなく悪そうなので成都に帰ろうかな。また石投げられるかもですけど」
「長旅になるのだな。体にはくれぐれも用心してくれ」
「ありがとうございます。ああでもその前に、夏侯覇殿に頼まれていた依頼があるのでそれを一件。あの人は最期まで誰かの忠臣だったみたいで」
「そうか。もし、この先姜維に会うことがあれば言ってくれ。楽になってくれ、と」
「はい、確かに」



 楽になる、にはいろいろな手段がある。
姜維殿が選ぶのは果たしてどの道だろうか。
私は馬車に揺られながら、遠のく成都を顧みた。




知ってたら、姜維殿は私を憎みこそすれ愛しはしなかったでしょうね





分岐に戻る