予想は井闌で越えていけ
私としたことが、遅参とは情けない。
誰よりも早く登庁し諸々の準備をするために自邸を出たにもかかわらず、政庁への角を曲がった直後にそれは現れた。
諸葛亮様に、これを。
短く告げられた言葉と共に引き渡されたのは、早朝でまだ眠いのかうつらうつらと頭を左右に不規則に揺らしている年端も行かない女の子だ。
狂っている、反吐が出る。
使う伝手と頼る相手、取るべき策を間違えている。
人質にでも何でもすればいい、孔明はそういうのはきっと得意だから。
闇と共に届けられた友からの文にはそう書かれていたが、本当にそうできると思われているのならば心外だ。
何も知らない無垢な子どもを政争の具にするほど合理主義に徹しているつもりはない。
その手の劇薬を使いこなす同僚はとうに死んだ。
「では、私はこれで」
「待ちなさい。・・・この子は本当に、あの男の娘なのですか」
「我が主、徐庶様はそうと」
「では元直に伝えなさい。お人好しに私を巻き込むなと」
「は、確かに・・・」
風のように音もなく消えた使者を見送り、残された子どもを見下ろす。
ようやく目が覚めたのか、ふるふると頭を振っている。
これからどうすれば良いのだろう。
まずは月英に報告と相談、それから事が事だけに劉禅にも伝えておくべきだろう。
打つ手を間違えてはいけない、預かったからにはたとえそれがあの男の娘であろうと育て上げねば。
彼女には何の罪も、与えるべき憎しみもないのだ。
この国で育って良かったと思えるような娘にすることが、せめてもの意趣返しだ。
おじさん、誰?
唐突にそう尋ねられた諸葛亮の顔がぴくりと引きつった。
いや、それは殿が約束に遅れていい理由とは全く違うので。
そう淡々と顔色も変えず反論され撃破され、むうと頬を膨らませる。
冗談も情緒も通じない朴念仁だ、面白くない。
そんなところまで諸葛亮様に似ようとしなくてもいいのに、さてはこいつ思い込んだら一途な隠れ猪突猛進だな?
一見理知的に見えて、目標と定めた者に対しては多量の無理と無茶を押し通す面倒くさい男だな?
ああやだやだ、諸葛亮様にちくっと具申しとかないと。
諸葛亮様、私も含めて部下を見る目がちょっと抜けてるところがあるもんな。
激務で目が悪くなってるだけかもしれないけど。
は仕事においては教えることが何もないよく出来た後輩姜維を机越しに眺め、はああと長い溜息を吐いた。
成都の街は一通り案内した。
一応は見た目だけはとてつもなく可愛いというか美しい後輩だから、とっておきの熊猫生息地も紹介してみた。
主だった諸将の居住地も挨拶がてら散歩したし、成都に長く住まう者としてやれることはやり尽くした。
執務についてはまあ、こちらも教えられるほど大層な仕事は仰せつかっていないし流れを説明すれば姜維はすぐに覚えた。
先輩の立場や思いやりをまるで考えようとしない後輩だ。
「もしかして姜維殿って友人つくるの苦手?」
「・・・何を突然。それは執務に関係することか?」
「関係はしないけど、軍務は内政あって初めて成り立つものだからその辺の折衝は大事だよ」
「それはきちんと心得ている。殿こそ丞相の元にいながらなぜそんな体たらくなんだ、嘆かわしい・・・」
「だからほら、私は日夜激務に追われる諸葛亮様の政庁に咲く一輪の可憐な花みたいなので充分だから。姜維殿ももう少し私に感謝してほしいものよね、この私を独占できるなんて成都中探してもなかなかいない果報者なのに」
「いや、それは私だけだろう。殿はひとりしかいないのだから」
「あっうん、そうなんだけど、えっ、そうなの? 姜維殿ってば私といられて実はそんなに嬉しかった?」
「それが果報か凶報かは捉える相手によって変わるだろうが、少なくともこの不毛な会話を味わう目に遭うのは私で最後にしたいものだ・・・」
「なんでそんなに私のこと凡愚扱いするの、ねえ」
「だから凡愚と言うなと丞相からも言われているだろう。司馬懿の口癖なんだ、私も殿の口からその言葉は聞きたくない」
「ああそうなんだ、ごめんね。諸葛亮様にも後で謝っとこ」
諸葛亮様がぽつりと懸念事項ですと呟いていた案件を裏から根回しするために担当者と話し込んでいて約束の時間に遅れたのが、それほど気に喰わなかったのだろうか。
それとも、協力のお礼に夜更けにこっそり酒宴したことがばれてた?
でも酒宴ごときで姜維殿が怒る理由はないもんな、もしかしてうるさくてお隣さんの姜維殿寝不足だったのかな。
国家の一大事たる北伐を成功させるには、ありとあらゆる些細な準備を疎かにしてはならないのだ。
大丈夫かな姜維殿、その辺の細やかな気配り苦手そうだもんなあ見るからに。
あっ、もしかして焼きもち妬いてた?
ひとまず思い浮かんだ不機嫌の理由を挙げたの発言に重ねるように、姜維は違いますと早口で即答した。
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