別れと別れは突然に
漢中の土は初めて舐めた。
ううむ、成都よりもちょっとしっとりとしていて意外と肌に優しいかも?
やや遠くから聞き慣れた後輩の叫び声が聞こえるけれど、その声には応えられない。
そりゃそうだ、今まさに私は魏軍の捕虜になったのだ。
いつかはなるだろうなーとは思っていたけど、本当になってしまった。
自分の身を守ることもできない私が北伐に従軍した時点でそもそも半分死んだようなものだったけれど、この場合はどう判別すればいいのだろう。
というか姜維殿、私がいないと寂しいからって我儘すぎる。
私連れてきて何させるつもりだったんだか。
捕虜の扱いってどんな感じだっけ、なったことがないからわからない。
捕虜の経験がある知り合いもいない。
姜維殿は諸葛亮様が策をもって丁重にお迎えしたと、諸葛亮様と月英様から聞いたことがある。
それにしても私、よたよた走っているところを転げてそして捕まるなんて、蜀に無事戻れたとしても一生笑われそうだ。
酒宴とかで真似されるかもしれない。
しかもよりにもよって一番間近で見ていたのがあの姜維殿だなんて、姜維殿ますます私のこと凡愚扱いしそうだ。
考えただけで気が重くなってきた。
頭も痛い。
「えっ、殴るの?痛っ!」
「黙れ!うるさい女だな!」
「よく言われ・・・るぅ・・・」
さすがにこれは無理だ、死ぬわ。
辞世の句を考える間もなかった。
私は痛いと叫ぶと、また土を舐めた。
もう味はわからない。
あっという間の出来事だった。
おそらくは司馬一族の策略だろう、伏兵に翻弄され陣を後退させている最中にそれは起きてしまった。
漢中なら馴染みの土地でもあるし何かの役には立つだろう。
だが一応不安だから傍に置いておくかとを形ばかりの参謀として抜擢していたことを様々な意味で後悔した。
結論から言おう。は役に立つ前に捕縛されてしまった。
殿と叫ぶよりも先に「いったーい!」と間の抜けた悲鳴が上がり、悲鳴の元に魏軍の兵たちが群がっていった。
蹴散らせばまだ助けられると馬を返したが、部下たちに体を張って留められては動けない。
今は奪還の機会を窺うべき。
そう言われて泣く泣く陣を引き払ったが、思い出すのはの悲鳴と情けなく転んだ姿ばかりだ。
布陣した時には隣で雑談に花を咲かせていたが今はいない。
幕舎はこれほど静かだっただろうか。
敵は曹爽だから、全軍をもってすれば漢中の奪還はできるだろう。
もそこに留まっていればいいのだが、生きている保証はない。
「斥候に探らせたけど、殿らしき姿は見つからないねえ」
「殿は諸葛亮殿に長くお仕えしていたんですよね。魏軍が警戒するのも無理はないと思います」
「丞相の元にいたというだけで実績はないはずなので、こちらの情報が洩れる心配もないのだが・・・」
「殿、かわいいからねえ。かわいそうな目に遭ってないといいけど」
「かわいい?」
「一刻も早く奪還しなければ。姜維殿、出陣を」
果たしては馬岱が言うとおり、かわいかったのだろうか。
思い返してみても、ひたすら振り回されていただけで可愛げがある行動を目の当たりにしたことはない。
そんなでも、ひとたび他国へ囚われ行動を制限されてしまえば印象も変わってしまうのかもしれない。
あのが牢獄で大人しくしているとは思えないが。
単身五丈原へ取って返し、最低なおじさんに遭ったと憤りながら無傷で帰還した時のようにひょっこりと戻りそうな気もするが。
それらがただの自分勝手な願望だと気付かないようにして虚勢を張っている自分が面白くなくて、姜維は眉根を寄せた。
不在の身でありながらも平静をかき乱してくるが恨めしい。
姜維は、誰もいない隣を顧みた。
失ったのは、どうやら一輪の花ではなく大輪の花だったらしい。
こう見えて、一応武術の鍛錬は積んだことはある。
初めは趙雲様がみっちりと鍛え上げようとして、あの趙雲様ともあろうお方が匙を投げた筋金入りの能力なしだ。
さすがは私、人に誇れるところがあまりにもなさすぎる。
それではあまりにかわいそうだ、文官とはいえ身を守る程度はと今度は諸葛亮様が直々に羽扇の扱い方を教えてくれたこともあったけど、それはいろんな事情があって中断した。
中断は再開することがないまま諸葛亮様が亡くなってしまって、私のお遊びのような武術鍛錬に付き合ってくれる暇な人も蜀にはいなくて、今でも鍛錬は放ったままだ。
私のためにと用意してくれた羽扇も、置き場所はわかるけど手にしたことはない。
私みたいなのが羽扇を持ったところで何の戦術も思い浮かばないのだ。
持っているだけで期待をさせてしまう代物なのだ、あの武器は。
「というわけで終わったな、私・・・」
もちろん死んではいない。
死ぬにはほんの少しの猶予が与えられているらしい。
でもこんな猶予、ない方が良かったなあ。
私は、身ぐるみ剥がされた後に着せられたらしいサラサラ透け透けの衣を手に取りため息をついた。
劉禅様の后でも着ていないような上等物を、たかが捕虜に着せるのか。
恐るべき曹魏の国力、これでは姜維殿がどんなに北伐をしたところで蜀軍が疲弊するばかりだと思ってしまう。
それにしても、戦場のど真ん中にあって放蕩にふける馬鹿がいるとは。
面倒なことになってしまった。
面倒な奴が相手でなければいいんだけど、いや、誰であろうとたとえ相手が姜維殿でも面倒にはなってしまうのだけど。
ぎいと戸が開く音が聞こえ、出入口を顧みる。
あれは確か曹爽、なるほど合点した。
司馬一族を出し抜こうとして無理やり兵を率いたけど姜維殿相手に苦戦を強いられて、やられっぱなしのところで偶然生け捕ったのが姜維殿の傍にいた私だったから腹いせか!
自分が天才軍師なのではないかと勘違いしてしまうくらいに相手の考えが読める、読めまくりだ。
でへでへと下品な笑いを浮かべて気持ちが悪い、どうせならもう少し風情のある場所で男前に・・・。
現実逃避に励んでいると、曹爽の手が肩に伸ばされた。
「いや無理、やめた方がいいと思う」
「女、そう怯えるな。私は大将軍、曹爽である! 案じることはない、お前は私の寵愛を受け后となるのだ、曹家の后ぞ!」
「曹家って・・・あなた皇帝じゃないじゃん」
「陛下など我が意のまま。さあ、さあ・・・」
「う~ん・・・」
馬鹿だなあと思う。
私も私自身のことは結構な馬鹿だと自負しているけど、私よりも数段上の紛れもない馬鹿だ。
私は曹爽を全力で押しのけると、寝台の団扇を手に取った。
これで何をされるつもりだったのか、考えるだけでおぞましい。
私は団扇を構えると、すうと深呼吸した。
鍛錬を中断したのは、その方がいいと諸葛亮様が気を遣ってくれたからだ。
本当に優しい人だった。
どうしようもない事実にさえ私が傷つくことを許さなかった、鬼のように優しい親だった。
馬鹿なの、と呟く。
団扇に宿るはずのない熱が籠もり、淡く光る。
できる、できるに決まっている。
だって私の親は。
「―――ねえ、どうしてそんなに馬鹿なの?」
できなかったから中断したのではない。
できてしまったから、できすぎてしまったからやめたのだ。
何の変哲もない悪趣味な団扇から放たれた黒い閃光が曹爽の耳元を通り過ぎ、閉ざされた戸を貫く。
見覚えがある光だろう、あなたが大嫌いな光だろう。
そいつを出し抜こうとしているのに、せっかくのお楽しみの獲物が同じことをしたんだから。
哀れにも腰を抜かした曹爽にもう一度馬鹿なのと吐き捨て、部屋を飛び出す。
本当はこの下品な衣も脱ぎ捨てたいけど、代わりがないのでこれで駆け抜けるしかない。
曹爽が人払いをしていて良かった、まだ騒ぎにはなっていないから逃げられるかもしれない。
私は、今や唯一の味方となった団扇を胸に抱え城外へ走り出した。
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