別れと別れは突然に     2




 捕虜が脱走した。
戦闘はおろか、ようやく捕らえた虜囚の扱いすらままならない凡愚だとは。
司馬懿は味方の愚かしい失態の報告を受け、深くため息をついた。
捕らえた捕虜をいたく気に入った曹爽が、早速寝所に連れ込んだらしい。
戦場に来てまでやることではないと、周囲も諫言しなかったのだろうか。
凡愚に群がるのは所詮凡愚だ。
そんな連中に捕らえられた女が気の毒だと初めこそ思ったが、あの程度から逃げることもできない馬鹿にかける情けなどないとすぐに考え直した。
馬鹿同士の争い、結構。
味方の兵を巻き込まないでやってほしい。



「父上、捕虜が脱走したそうです」
「知っておるわ」
「捕らえますか? こちらへ向かったとの報も入りましたが」
「放っておけ」



 くだらない茶番だ。
女一人を捕らえるのにどれだけの労力をかけているのだ、みっともない。
渋々促され幕舎を出た司馬懿は、直後放たれた黒い閃光に身をのけぞらせた。
あっごめんなさい悪気はちょっとあるかもしれないと叫び駆け抜けていくのは、あられもない姿をした若い娘だ。
なるほどあれが逃げたという捕虜か。
いや待て、あれは。
捕虜を追いかけていたらしい夏侯覇が、ぜえぜえと荒い息を吐きながら駆けつける。
いやぁ参った!
夏侯覇は足を止めると、遠ざかる娘の背中を見つめた。



「まるで雌鹿のようなしなやかな・・・って見惚れてたらあれです。いやぁさすがは姜維の参謀ってだけはある、肝が据わってる」
「父上、やはり追った方が良いのでは。あの女には見覚えがあります。確か五丈原に単身忍び込んだ・・・」
「門を開けろ、曹爽の兵は誰も通すな」
「父上?」
「私の娘だ」
「今、何と」
「お前の妹だと言っている、師」
「あ、えーと、これは俺は聞かない方が良かった話ですか?」



 戸惑う司馬師と夏侯覇を置き、女が駆け抜けた後を追う。
訊きたいことは山ほどある、言いたいこともそれ以上にある。
司馬懿は、無事陣を抜け出し脱走にほぼ成功した女の緩み切った体を馬上に攫った。






























 信じられない、最悪だ。
だから私は詰めが甘いのだ。
突然開け放たれた門から無事に逃げ出し、ほっと一息ついていたところで背後からの強襲。
そうだよねー、罠だよねー。
乱世ってそんなに甘くないよねー知ってたようで私はまだまだ世間知らずだった!
しかも私を捕まえたのは、五丈原で私を捕まえた顔のいい男の父親!
またこのおじさんだ、うわ、今度は何されるんだろう・・・。
曹爽軍からの脱走で体はくたくた、唯一の武器だった団扇も毛羽立ってボロボロな今の私に為す術はない。
私を馬に乗せたまま陣からみるみる離れていくおじさんは、一言も喋らない。
あのうと控えめに声をかけてみても、何の返事もない。
人里離れた森深くで殺されるのかもしれない。
せめて体は月英様のところに返してほしい・・・。
そんな私のささやかな夢も、このおじさんの無慈悲な手によって潰えるんだろう。
概ねいい人生だった、諸葛亮様たちに育ててもらって良かった。
私は今度こそ辞世の句を練り始めた。




「あ、喋った」
「お前は、だな?」
「はい。・・・っくしゅん」



 馬が歩みを止め、地面に降ろされる。
夜の森は寒い。
加えて私は着ていないも同然の薄着だ。
呼ばれた名前に鼻をすすりながら答えると、ぽうと周囲が明るくなる。
火を焚いてくれたようだが、受け止め方がわからない。
おじさんから殺意は感じられないし、もしかして今が逃げる好機なのでは?
じりじりと炎から後退していると、おじさんがもう一度私の名前を呼ぶ。
噛み締めるように、ゆっくりと。
うわ、気持ち悪い。
そう言わなかった私の忍耐力を褒めてほしい。



「座りなさい」
「えー・・・」
「体を冷やしてはならないと、お前は諸葛亮から教わらなかったのか?」
「いやそのくらいは教えてもらわなくても知ってるけど。ていうか私は知っての通り脱走兵だからこんな所でのんびりしてていい状況じゃないんだよね」
「追手など寄越させはせん。行くにも戻るにも、いずれにせよ体は休めた方がいい」
「行く?戻る?」



 ぱちぱちと爆ぜる炎に手をかざせば、冷え切った体も温まり口も饒舌になる。
危害を加えられないとわかれば気も緩んでしまって、おじさんの冷たい顔をちらりと見ることもできるようになる。
あれ、思ったより冷たくない。
ちらりと見るたびにおじさんと目が合ってしまうのは、おじさんが私を凝視しているからだ。
うわ、気色悪い。
そう言わなかったのは、おじさんの視線がなぜだか諸葛亮様と似ていると思ってしまったからだ。
そんなはずないのに、私やっぱり疲れてるのかもしれない。
諸葛亮様と月英様以外が、私に親の愛を注ぐはずがない。



「おじさん、私のことどうして知ってるの? 私を捕まえないのはどうして?」
「お前は本当私がわからぬのか」
「魏軍に知り合いはいないですね・・・」
「・・・そう、か。蜀の暮らしはどうだ、ひもじい思いはしていないか?」
「あーっ、今のは尋問でしょ。そういう些細な話から国の内情を探っていくんでしょ」
「違う・・・と言ったところでお前は信じぬのだろうな」
「まあ、おじさん今は親切だけど敵なんで・・・ごめんね?」



 世間話ができなくなってしまった沈黙の時間がとても長い。
おじさんも捕まえるつもりがないならとっとと陣に帰ってほしいのに、何も言わないし動かない。
おじさんの行動の理由がわからない。
いつまでこうしていればいいのだろう。
寂しい夜はあまり好きではない。
帰りたいなあ。
思わずそう呟くと、おじさんがすまないと言って口を開いた。



「捕虜がお前だともっと早くに知れていれば、今日のような目には遭わせなかった。私の怠慢だ、許せ
「おじさんは私に弱味でも握られてるの?」
「そうではない」
「ですよねー。んーじゃあ何だろう。・・・そういや、おじさんの独断で私逃がしたら曹爽に叱られるよね。処断されたら私も気まずいし。どう、生きられそう?」
「お前が案じることはない」
「そっか。でもでも、もし私なんかのせいでおじさんやその家族が三族皆殺しにされそうになったらさ・・・」



 辺りが明るくなり、夜が明けていく。
焚火の炎も気付けばどんどん小さくなり、寒さも和らいできた。
これ以上森に留まっているとさすがに危険だ、朝靄に視界が遮られている今のうちに姜維殿たちが待つ本陣へ帰らなければならない。
姜維殿のお小言お説教が懐かしくなる日が来るとは思いもしなかった。
私は立ち上がると、おじさんに背を向けた。
おじさんが誰なのかわからない。
おじさんがどうして私の名前を知っているのかも、教えてくれないからわからないままだ。
でもどうせ敵、ちょっとだけ私に優しくしてくれた敵にかける情けなんてない。
とまた呼ばれ、はぁいと答える。
体は蜀へ向けたまま、首だけおじさんへぐるりと捻る。
おじさんの驚いた顔に私も思わず笑ってしまう。



「私、こう見えて司馬懿の娘なの。だからおじさん、司馬懿殿によろしくって言っといて」
、お前は」
「びっくりした? ま、司馬懿殿が私のこと覚えてるかはわかんないんだけど」
「忘れるものか。手放すつもりのなかった娘のことを忘れた日などあるはずがなかろう!」
「そう? でもいいの、忘れられてて。そっちの方がきっと、私も諸葛亮様を父と呼べるから。おじさんありがとう、長生きしてね」
「待て、行くな、私なのだ。私がお前の・・・父だったのだ・・・」



 おじさんが靄の向こうで何を言っていたのかはもう聞き取れない。
おじさんに次に会う日は来るだろうか。
司馬懿という父は、おじさんを無事守ってくれるだろうか。
覚えてないだろうな、私も司馬懿殿のこと何も覚えてないっていうか会ったことすらなさそうだもんな。
ということはおじさんは「何を世迷い事を言っているのか、私になどという娘がいるものか!」とか言われて頭がやばい人扱いされるんだろうな。
むしろおじさんの死期を早めてしまったことに悔みながら、帰路を急ぐ。
霧の向こうに消えゆく森の奥から、私と同じ色の閃光が煌めいた気がした。





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