彼方から何度でも




 成都の城門で、見えてくるであろう馬車の土煙が上がるのを今か今かと待っている。
楼閣に上がればより遠くまで見渡せるだろうかと城壁へ向かったが、丞相はどうかここでと衛兵たちから強く押し留められ、大人しく地上で立ち竦んでいる。
今日はが孫呉から帰還する日だ。
こっそり出ていくと宣言した彼女の我儘と意気込みに水を差すのは憚られ、護衛として姜維を帯同させた。
程なくしてその選択が大いなる誤りだったと知ることになったが、それでも、諸葛亮は今度こそは弟子を信じていた。
を悲しませるのは一度きりにしたかった。



「孔明様、あれを」
「時間通りの帰還・・・、やはり姜維に任せて正解でした」
「それにしては随分と早くからこちらにいらしていたような」
「私が来た時には既に月英、あなたもいましたよ」



 顔を見合わせると、互いに笑みが溢れる。
本当は少しでも早く帰ってきてほしかったのだ。
がいない生活は静かで、一日がとても長かった。
もしもが孫呉にずっと住みたいと言い出したらどうしようと、真剣に思い悩んだ夜もある。
を乗せているであろう馬車が城門の前に停まる。
ばたんと音を立て開け放たれた扉から、投石車で放たれた岩のような勢いで人が飛び出す。
諸葛亮様と月英様だ!
飛び出すなり抱きついたを、月英がぎゅうと抱き締める。
ああ良かった、おかえりなさい
の柔らかな髪を撫でながら母の顔を浮かべる妻に、諸葛亮もゆっくりと歩み寄った。
できれば自分にも抱きついてほしい。
娘に飛びつかれても耐えられるように実は密かに鍛えてきたのだ。
鍛錬の成果を発揮させてほしい。
諸葛亮の願いがわからないは、月英から離れると諸葛亮に向き直った。



「ただいま諸葛亮様! 我儘聞いてくれてありがとうございました」
「遠路疲れたでしょう。道中何もありませんでしたか? 姜維は役に立ちましたか?」
「はい! あれ、姜維殿?」



 慌ただしく馬車から飛び出してきたが、再び馬車に駆け戻る。
起きて姜維殿、成都だよとが大声を上げている。
馬車が揺れているのは、が車中の姜維を強めに揺すっているからか。
は平気だったようだが、姜維には孫呉の水や土が合わなかったのかもしれない。
夫妻は馬車へと近付いた。
馬車に揺られて心地良かったのか、ぐっすりと眠り込んでいる姜維に馬乗りになるようにが体を揺さぶっている。
諸葛亮はの手に自分の手を重ねると、首を横に振った。



「目元に疲れが見えます。このまま休ませてあげましょう」
「そうかも。姜維殿昨日寝ずの番してたみたいなんですよね」
「まあ、そうなんですか。姜維殿にも後でたんと礼を言っておかなければなりませんね」
「昨日は同じ部屋で休んだんですけど、朝起きたら姜維殿すごい顔で寝台に座ってたから」
「今、なんと」
「だから姜維殿が」
、疲れたでしょう。姜維は転がしておけば勝手に起きるでしょうから放っておきなさい」



 ほぼ抱え上げるようにしてを馬車から出し、邸へと追い立てる。
こんな状況で鍛え上げた肉体を披露するとは思わなかった。
邸への道中、あっけらかんとした表情と軽やかな足取りで海の話を続けるを、妻も複雑な顔で聞いている。
訊きたいのはそこではないだろうが、訊くのも恐ろしいといったところか。
がいると毎日が飽きない。
を部屋に送り届けた諸葛亮は、門前で丞相と叫ぶ声を聞きつけ顔を上げた。
娘に手を上げた男はお前か。
このまま海に沈めてやろうか。



「姜維、私はあなただけは信じていたのですが」
「誤解です!」
「年頃の男女が一晩同じ部屋にいて何も起こらないわけがありません」
「そうならないように我慢して辛抱した私のことを信じていただきたいです!」
「あんなに可愛いを前に我慢とは、も見くびられたものです」
「丞相はどちらが良かったのですか・・・」



 寝ずの番というのは事実らしい。
馬車の中だけでは寝足りなかったのか、あるいはの話に付き合い続けていたのか、目の下にはしっかりと隈ができている。
の護衛と親善の使者という二大重大任務を背負った緊張もあったのだろう、出立の日よりも痩せて見える。
少し悪いことをしてしまった、と共寝したのは許さないが。
諸葛亮は決まり悪げに下を向いた。
父親とはかくも難しいものなのか。
貴重で楽しい経験をさせてくれるには感謝してもしきれない。



「あれ、姜維殿起きたの? 私の膝枕そんなに気持ち良かったならまたしてあげよっか」
「ちょ、殿・・・!」
「姜維」
「誤解です丞相!」
「そうだ諸葛亮様、貝殻あげる~」
は物を見る目がありますね、今度は月英と3人で隆中に行きましょう」



 可愛い子には旅をさせよと世間では言うけれど、旅なぞ二度とさせるものか。
諸葛亮は悲痛な声を上げた寝起きの姜維に、躊躇うことなく羽扇を向けた。




ご本人の許可は得ているので、膝枕を所望しに参りました



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