伸ばした腕はまだ遠い




 あの女はじっとしておくことができないのか。
司馬懿は陣営の隅で火起こしに励んでいるの背中を忌々しげに見つめ、毒を吐いた。
半ば脅しながらも武運を祈らせ邸宅に押し込んだ翌日、ごきげんようと戦場で清々しい顔で挨拶を受けた。
なぜここにと必死に怒りを抑えて問い詰めると、戦があると教えていただいたのでとしゃあしゃあと言ってのける。
出陣の報告をするために邸宅を訪ったのではない。
本当の本当に、心の底から無事を祈ってほしかったから会いに行ったのだ。
来てしまったのならば仕方がない、彼女は常に側に置いて手放すものか。
そう気持ちを切り替え重々に言って聞かせたのに、またもやが失踪した。
なぜよりにもよって本隊に従軍するのかと彼女の愚かしい選択に憤り、万一の事態を恐れた。
戦より頭を使う上に疲れる。
司馬懿は火遊びに飽きたらしいを幕舎に迎え入れると、隠すことなく大きくため息を吐いた。



「随分とお疲れのご様子、今日は疾く休まれませ」
「思い通りに動いていただけぬ遊軍気取りの公主に手間を掛けさせられましてな」
「夏侯覇殿やご兄弟との進軍は楽しゅうございました。曹爽殿がどのような方かも知ることができました」
「曹真殿のご子息とは思えぬ凡愚であろう」
「立場が人をつくるやも・・・」
「甘いことを仰る。貴女ほどの方でも同族は庇いたくなるとは」
「置かれた立場で変わってしまった者を私はよく存じております。その者が悪いのか、担ぎ上げようとした者が悪いのか・・・」
「孫呉の話か。終いにはどちらの皇子も斃れたと聞いています。巻き込まれず、殿も運が良い」
「公績殿のご子息はおそらく誅されておりましょう。わたくしの子ではありませんが、それでも心は痛みます」
「・・・失礼いたしました」



 構いませんと淡々と答えるの顔色を窺う。
幕舎に入ってきた時と何も変わらない、そっけない表情のままだ。
嫌な話題になってしまった。
司馬懿は大きく咳払いすると、を手招きした。
一歩だけ歩み寄ったの袖を引き、隣に座らせる。
すす、と人ひとり分の距離を開けようとしたの腕をすかさず掴む。
の顔が困ったように少しだけ歪んだ。



「足の具合は?」
「何のことやら・・・」
「古傷が痛まぬかと訊いている。よもや夏侯覇が足の傷を知るはずもなかろう」



 かつて参戦した戦いであの馬超に突かれたという足の傷は、年月を経た今でもしっかりとの身体に傷跡として刻まれている。
日常生活を送るには問題がないとは言い張るが、ここは非日常の空間だ。
休みのない長い行軍、慣れない土地にの足が悲鳴を上げていてもおかしくはない。
そしては悲鳴を上げない性質だ。
知っている者が案じなければ、彼女は限界まで無理をする。
今、曹魏で彼女の秘密を知るのはこの司馬仲達だけだ。
他の誰かが知っていようはずがない。
あれは、彼女をある程度暴かなければ暴かれない秘密だ。
司馬懿はの裾に手をかけた。
決して疚しい思いからの狼藉ではない、守るべき貴人の無事を知るために必要な処置だ。



「そういえば、曹爽殿は漢中で捕らえた蜀軍の捕虜の女人を寝所に連れ込んだとか・・・」
「・・・何が言いたい」
「凡愚の真似をしたくなる日もあるのだな、と」
「足はまことに」
「夏侯一族が主を危難に晒すとお思いか? あれの忠誠心を甘く見られるな、わたくしは曹ぞ」



 主は堂々としていなければ、威風は保てませぬものね。
あっという間に威厳を内に仕舞ったから、慌てて距離を置く。
捕虜が逃げたぞと外がにわかに騒がしくなり、司馬懿は荒々しい足取りで幕舎を後にした。




逃げた捕虜の話はこちら



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