兄の本音
兄の心得がない。
兄の大きく逞しい背中を弟として眺め、憧れ、羨み続けてきた弟としての自覚しかなかった。
父と兄が卑劣な裏切りにより討たれ、「弟」でしかなかったのに突然「兄」となってしまった。
兄であろうと必死にもがき、励み、誰もいないところで呻き苦しみ泣いた。
同じく兄である人々と自らを比べてしまう時もある。
彼らは、兄だった人を知っているから。
彼らは、同じく「兄」であるはずの自分よりも優れた「兄」であるような気がしたから。
「緊張した~!上手に言えてた、かも!」
「立派だった、殿」
「ありがとうございます! えへへ、関興殿に練習聞いてもらったおかげです」
「私は聞いていただけ・・・。初対面の相手でも物怖じせずに溌溂と語ることができるのは殿の長所だ」
「いっぱい褒められちゃった!」
孟獲夫妻からも上手に言えてえらい、頑張ってえらいと褒めちぎられていただ。
はどこにいても、誰が相手であろうと好感を得やすい。
に害意を持つ者に会ったことがない。
成都にやって来たばかりの頃から、は皆から愛情を傾けられる存在だった。
私の次に可愛がられているぞと劉禅が微笑んでいたが、それも嘘ではない気がする。
は懐いてくれている。
だから兄としての自信を持てるようになるかもしれない。
甘い打算で今回の旅の供に名乗りを上げたことを、諸葛亮はおそらく知っているだろう。
認められたからには結果を出さなければならない。
「殿、首は?」
「厚着の理由を訊かれた時に答えたら、嗅いだことない臭いがする薬みたいなのを塗ってもらいました」
「だったら良かった」
「あと、象に乗れるって本当ですかって訊いたら、なんとか大王殿が乗せてくれるそうです!」
「危険すぎる、馬とは訳が違う」
「なんとか大王殿が一緒に乗ってくれるそうです」
「それはそれで問題があるような・・・」
「うーん・・・」
象に乗る寸前で反対されたが困った顔で天を仰ぐ。
どうしようかなと呟いているので、何か別の案を捻り出しているのかもしれない。
我儘は言わない利口なだが、頑固ではある。
手段は変えても目標は変えないという強い意志はあるようで、おかげで彼女の周りにいる人々は折衷案を考えるのが巧くなった。
だが、今日は助け舟を出すつもりはない。
時には諦めも肝心だ。
そうだ、と弾んだ声を上げたが勢いよく腕にしがみつき、予期せぬ奇襲に関興の体が横に揺れた。
「関興殿も一緒に象に乗って下さい!」
「・・・私と?」
「はい、一緒に。よくよく考えたら、知らない男の人と一緒に象に乗るのはどうかと思って。だから関興殿がいいです」
「良いと悪いの線引がわからない」
「私がいいって言ったらいいんです。関興殿と一緒がいい。あーあ、私の兄もかっこよくて優しくて強くて頭がいいといいんだけどなぁ」
「殿には兄君がいるのか?」
「いや、知らないですけど。いるかもわからない兄なんかより関興殿の方がよっぽど兄です。・・・だめ?」
だめ、と訊かれて駄目と答えるのは兄ではないと思う。
だめ、と訊かれて邪険に扱うと、彼女の背後に見え隠れする諸葛亮にちくりと物申される気がする。
甘やかさないで下さいと口では言っておきながら、実のところはべたべたに甘やかしたくて仕方がない子煩悩の諸葛亮だ。
いや、彼の小言があろうがなかろうが、この国にの「だめ?」を却下できる人はいないだろう。
兄でも弟でも姉でも妹でも無理だ。
の「だめ?」は勅令の次に抗えない。
恐ろしいことにこの国には、に「だめ?」と言ってほしくて初手わざと厳しいことを言う変人もいるのだ。
「・・・象の上では暴れないように。手綱は私が引くので、殿は座ってさえいてもらえれば」
「本当に? 嬉しい~関興殿大好き!」
「殿は私でいいのか。私が兄で」
「あー、えーと、関興殿にお兄さんがいることは聞いたことはありますけど・・・。うーん、うーん、関興殿は弟の気持ちもわかる兄って感じで、同じお兄さんでもその辺は個人差あるので気にしなくていいんじゃないかなって思います。ていうか私から見れば関興殿も張苞殿も関索殿もみんなお兄さんですけど。お兄さんいっぱいで嬉しい」
が眩しく光り輝いて直視できない。
いったい誰がこんないい子に育てた。
物事をじっくり考えて発言する素直な部分は間違いなく自分が育てた。
関興は腕から離れ、ひとりキャッキャと南蛮特有の巨大な葉でかくれんぼを始めたを見やった。
でも趙雲様はお兄さんではないですよね、趙雲様は自分でお兄さんって言ってますけど。
葉っぱ越しに聞こえてきたの質問に、関興はおじさんと短く答えた。
「お兄さんでいる秘訣か? そんなものはない、なぜなら私はお兄さんだからだ」