流れ星の置き土産 6
あの軍師、ついに食ったのか。
が殊の外まともな足取りで向かっていたので止めずに見送るだけにしたが、よくよく考えれば倫理的に問題はなかっただろうか。
あの子の歳は知らないが、出会ってから確かこれだけの年月を経たので、待ちに待って育てに育てて満を持してといったところだろう。
大丈夫だろうか。
戦勝の宴の翌日に子女暴行の罪を得て牢に入れられたりしないだろうか。
牢獄生活も耐えればそれなりに過ごせるが、郭嘉では無理だろう。
惜しい人を亡くすかもしれない。
同僚の凶行(仮)を止め損ねたことを今更ながら悔いていると、へらりとした顔を浮かべて今ひとりの軍師が現れる。
さっき郭嘉殿と出て行った娘さんは誰だいと尋ねる男に、さて何と答えるべきかと熟考する。
あまり紹介したくない。
「郭嘉殿の新しい佳い人・・・にしては、随分と歴代のご婦人とは毛並みが違うが」
「古い馴染みの娘です。身内のような」
「あの御仁は身内にまで食指を伸ばすのかい。さすがは色男だ、娘さんもよく落ちたもんだ」
「落ちて、落ち着いてくれると俺たちも安心するのですが」
「にしては娘さん、随分と思い詰めた顔をしてなさったが。喜んで向かってる様子じゃあないように見えたが、男女の仲ってのは戦よりも難しい」
「考えすぎる子ですから。・・・賈ク殿は随分とよく見ていたんですね」
「ん? ああいや、好みの顔だったもんで」
ほろ酔い気分が一気に醒めた。
冗談で言っているのならまだいいが、本気だとしたらどう対処すればいいのだ。
無理だ、手に負えない。
うっかり出会ってしまえば悲劇が起こる。
荀攸は目の前の同僚を睨みつけた。
当たり前だが何も知らないようで、好みの顔即ちの見た目を語っている。
気味が悪すぎる。
「ったく郭嘉殿も荀攸殿もつれないねえ。かといって今更どうこうできるわけでもなし、ご縁がなかったとはいえ惜しいことをした」
「賈ク殿が命拾いできたようでなによりです」
「真顔でそういうことを言うのはやめてほしいんだが」
ひらりと手を振り、酒瓶片手に去っていく賈クを見送る。
危ないところだった。
逢瀬を重ねるならもう少し忍びなさいと忠告しておこう。
軍略ではない常識を教える必要に駆られる日が来ようとは思わなかった。
荀攸は過ぎ去った嵐をどうにか凌ぐと、口直しに杯を呷った。
私はいずれ死ぬ。
そう告げられても、特段驚きはしなかったと思う。
はい、としか答えなかったはずだ。
あんな顔色をしていたから、何を言われてもある程度の覚悟はできていた。
嫌な女だなと思う。面白みのない奴だと思う。
泣き喚いて事態が好転するのならいくらでも泣くが悲しいかな、自分の涙は慈雨でも薬でもない。
意味のない、ただ相手を困らせるだけのものだった。
そして、そんなつまらない意地ばかり張る小娘を郭嘉は案じてくれている。
「本当はともっとずっと共にいたかったのだけれど・・・」
「それが郭嘉様の隠し事ですか?」
「そうだね。私はもう戦場には出られないだろう。寂しいことだよ、勝利の美酒を味わえなくなるなんて」
「私は何をすればいいですか? どうすれば郭嘉様の願いを叶えられますか?」
「・・・典韋殿を喪ってが武器を手に取るようになってから、私はずっと考えていたんだ。どうすればを安全な居場所で守れるだろうかと。
戦場に出したくない。他人に姿を見られたくない。弱っている姿を見ていいのは私の前だけだ・・・と、私らしくもなく焦った考えをしたりもした。
私のものにしたかったと言えば、はどう思う?」
「欲しいのなら差し上げます」
「大切な人をつくる気にならないと以前聞いたことがあるのだけど」
「郭嘉様は大切な人ですから。私は、私がどうしたいのかわからない。どんなに勉強しても戦っても、私は私の行き着く先がわからない。仇はきっと近くにいるはずなのに、一向に出会えないんです」
の方がよほど死人のようだ。
心を置き忘れてしまったまま大きくなってしまった。
やり場のない空しさばかりが募っていって、生きる目的を見失っている。
もちろん真面目にきちんと生きている。
だが、それだけなのだ。生きているだけなのだ。
だから何を言われても響かないし、簡単に身を投げ出そうとする。
皆、彼女の心に触れるのを避けてきたせいだ。
このままでは、いつか本当に彼女は例えば戦場で生きることをやめてしまう。
仇に会わせないのが一番だと守りすぎていたのが良くなかったのかもしれない。
甘やかしすぎたツケが、今も払い出されることなく錘のようにに心に圧し掛かっていた。
「私はね、が幸せなのが私にとって一番の幸せで、喜びなんだ。けれども今の私ではを幸せにはさせられない。何で繋ぎ止めても、たとえ子を産ませたとしてもは抜け殻のままだしね」
「本当に私のこと好いて下さってたのですか・・・」
「なかなかに辛辣な顔をするよね、は。もちろんずっと愛していたよ、初めてを見かけ抱え上げた時から、は絶対に私の妻にすると決めていたんだ」
「ええ・・・」
「後ずさりしなくていいから。大丈夫、何もしない。今まで我慢できたのだから、今になって急に襲うわけないだろう? 私を信じてほしいな」
「はあ・・・」
邸を訪ねた際の悲壮な顔つきではなく、恐ろしくて哀れなものを見るかのような目で見つめられ、郭嘉は胸をぎゅうと押さえた。
が困っている。
無理難題を突き付けられ、感情を露わにして困惑しきっている。
些細なことから心を取り戻していかなければならない。
残念なことに自分にそれをやりきるだけの時間は残されていないが、彼女を想い案じる人々はたくさんいる。
そうすれば、いつの日かきっとも心を取り戻し生きることに前向きになるだろう。
人を愛することもできるようになるかもしれない。
それはそれで嬉しいようで切ないが。
「、私はの幸せを誰よりも願っているよ。そうだね・・・、配属も変わるだろうからしばらくは忙しくなるだろうけど、合間を見て遊びに来てほしいな。なんでも話してほしい」
「本当にもう戦には・・・」
「出られない。残念だけどこれは本当だよ。私もこう見えてもうかなりきつくて、昔のように抱いてあげることはできないけどが望むならがんばるから」
「いえ、いいです。しっかり養生されてください、荀彧様や荀攸様と一緒に伺います」
「もしかして警戒されてる? 水臭いなあ、私との仲なのに」
「・・・。・・・教えてくれてありがとうございます。知らないところで逝ってしまうのだけは嫌だったので」
別れは悲しいが、必ず訪れる。
典韋の時はあまりにも突然で、何もできず何も言えないままだった。
だが今度は違う。きちんと見送ることができる。
自分の気持ちに区切りをつけることができる。
それはとても嬉しくて、ほっとする。
できるだけ傍にいようと思う。新しい配属先は不安だが、今まで通りきっと上手くやれるはずだ。
はしきりに宿泊を勧める郭嘉の誘いを丁重に断ると、自宅へと向かった。
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