血煙る体(けむる)
子どもの頃から聞き慣れたよく通る声で、孫策と呼ばれる。
振り返れば子どもの頃から見慣れ、共に育った娘が微笑んでいる。
鎧と鉄板で全身を固めた無骨な姿ではなく、街を歩けば往来の視線を惹きつける美しい姿で歩み寄ってくる。
住み始めたばかりの建業で迷っているのかなかなか登庁しないを案じていたが、ようやく来てくれた。
孫策は待ちかねた佳人を両手で出迎えようとして、ぱたりと立ち止まった。
の隣を誰かが歩いている。
周瑜かと思ったが、友はもっと品位ある振る舞いを見せる。
馴れ馴れしくに触れ、顔を寄せ、耳になにやら囁き続けているあれはいったい何だ。
誰の許可を得てに触れている。
その行為には無二の友にすら時折妬心を抱きそうになるのに、周瑜でも古参の老将たちですらない輩が何の意図を持ってに親しんでいるのだ。
孫策はの隣の存在に意識を集中させた。
薄汚い老人が現れる。
あれが市井の人々が口を揃えて崇める仙人、于吉らしい。
「おい、! お前なんでそんな奴近付けてんだ」
「于吉様は私の恩人なの・・・」
「恩人? そいつは怪しい術を使い民を誰かす奴だ、そんな奴がお前を救うわけがねぇ!」
「酷いわ孫策・・・。周瑜はあんなに喜んでくれたのに」
「な・・・っ!」
の隣にもうひとりの男が現れる。
今度は間違いなく周瑜だ。
幕舎で見かける時のように、親しげに見つめ合っている。
知られていないと思っているのかもしれないが、彼らが軍議など公の場でない時も2人きりで語らっていることは気付いていた。
知らないふり、気にしないふりをしていた。
友人が友情を育むのは当たり前で、軍師が自分の身代わりを務めている女と綿密な計画を立てることも当然だと言い聞かせていた。
何も考えないようにしていた。
疑いたくなかった。
周瑜がと愛おしげに名を呼ぶと、それに応えるようにがうっとりとした表情を浮かべ体を寄せる。
の死の次に恐れていた光景が目の前で起こっていた。
と同じく長い時を共に過ごしている親友が誰を愛しているかなど、問い質すまでもない。
彼は、自分がを紹介したその日から彼女を好いている。
周瑜がの元の主を殺したのは作戦でも何でもない、彼の私怨によるものだ。
万事こちらに報告し決裁を仰ぐ周瑜が独断で動いたのは、後にも先にもあの時だけだ。
「やめろ! 周瑜! !」
「いたぞ、。あそこだ、孫策だ!」
「ええ? あれは本当に孫策?」
「身体は透けていない。物言わぬ人形ではなく錯乱しているのが何よりの証だ。しきりに私たちの名を呼んでいる、助けを求めているようだ」
「有事とはいえ、断金の契りを結んだ仲の男によくそんな言い方できるわね・・・」
周瑜が不気味に蠢く3体の幽体兵を真っ二つに裂き、何かに操られているかのようにゆらゆらと歩み寄る孫策に駆け寄る。
良かった、本当に孫策だったわ!
掴んだ腕のぬくもりを確認したが声を弾ませる。
ねぇ聞いて孫策。
原因不明の霧に惑わされているのか、焦点の定まらない視線のままでいる孫策の顔には手を伸ばした。
起きてと言えば孫策は目を覚ましてくれる。
昔からずっとそうだった。
鍛錬があることを忘れ寝坊をした朝も、両手で頬を挟んで起きてと言えば彼はすぐに覚醒してくれた。
と、孫策がぼんやりとした目でこちらを見つめる。
孫策を安心させるようにはにっこりと微笑んだ。
孫策の目に生気が戻り、頬に添えていた腕を掴まれる。
加減を知らない力で握られ顔が歪みかけるが、今は孫策を安心させるのが最優先だ。
は再び笑顔を向けた。
「孫策、落ち着いて。私よ、よ・・・」
「違う、そんなはずはねぇ」
「孫策?」
「お前は于吉がつくっただろう!」
「え」
眼の前で鮮血が飛び散る。
何者かが建業の異変に乗じて孫策を襲ったのだろうか。
霧で視界が開けなかったから不逞の輩に気付けなかった。
と、周瑜が悲鳴のような叫び声を上げる。
美周郎の焦燥した顔を見るのは今日が初めてではないが、はて、前に見たのはいつだったろうか。
周瑜に抱きかかえられたは、ようやく鮮血が自分の体から吹き出したものだと悟った。
良かった、襲われたのは孫策ではない。
今日は孫策の格好をしていなかったが、それでも彼に重なるように立っていたので大切な男を守ることができた。
下手人は誰だろう、周瑜はもう処分してくれただろうか。
は孫策の無事を確認すべく、ゆっくりと目だけ動かした。
孫策の右手に握られた剣からは、夥しい量の血が滴り落ちていた。