廻る疑心(めぐる)




 何もかも幻だったら良かったのに、背けたい部分だけは確かな現実だ。
周瑜は孫策に斬りつけられ倒れ伏したを抱き寄せ、何度も名前を叫んだ。
うぅと低い声で呻くの体からはとめどなく血が溢れ、自分の手では塞ぐことができない。


・・・? 嘘だろ、なんで俺、を殺してんだ」
「殺していない、まだ死んでいない。孫策、正気に戻ったのか? 手を貸してくれ、このままではが死んでしまう」
「いや、もう無理だ・・・。を斬った時、すんげぇいい手応えがあった。だから」
「それ以上言うと私でも怒るぞ!」
「待って・・・、孫策を怒ると私が怒るわ・・・」
「「!」」


 ゆっくりと目を開けたが、震える声で周瑜を詰る。
口の端から溢れ、血の気を失った顔へ伝っていく赤い血が殊更鮮やかに映る。
孫策は宙を彷徨うの細い手首を掴むと、自らの頬に押し当てた。
いつもよりも冷たく感じる手に、やはりと最悪を覚悟してしまう。
趣味の悪い幻影を一太刀で絶命させたつもりだったのに霧は手元を狂わせ、は苦しみながら死ぬことになってしまった。
もうは楽になるべきだ。
これ以上彼女に苦痛を与えるべきではない。
心のどこかがそう囁いた気がして、孫策は違うと叫んだ。



、なあ、俺を許してくれ」
「孫策」
、もう嫌だろう? 俺はずっとお前を苦しませてばっかりだ。俺がをずっと諦められなかったから無茶させて」
「孫策・・・、怪我はない?」
「ああ、俺は平気だ。だからは安心して休んでくれ」
「良かった・・・」



 涙を堪え精いっぱい笑ってみせると、がほっとした表情を浮かべる。
大好きよ、孫策。
孫策の頬を撫で柔和な笑みで呟き、は再び目を閉じた。



























 霧中の激戦は于吉の敗北で終わった。
被害は孫策を身を挺して守ったの負傷のみで、建業の民や孫策軍の兵たちは何かが起こっていたということすら知らない有様だった。
だから奴は民からの信が厚いんだ。
孫策は机を強く蹴り飛ばすと、周瑜や程普をはじめとした諸将に于吉討伐を命じた。
の容態は悪く、医師がつきっきりで看病している。
明日はないかもしれないと毎日報告を受け、夜もあまり眠れていない。
それは周瑜も同じようで、誰もが羨み憧れる美しい顔にも疲れの色が見えている。
を強く案じる周瑜を知っているから、于吉につけ込まれ騙された。
思い出すたびに己の短慮と、友を信じられなかった惨めさに苛立ってくる。
今になって周瑜が心中を曝け出すことなど絶対にありえないのに。



は太史慈にやられた時はあっさりと治ったんだがなあ」
「俺の時は鉄板を仕込んでいたと聞きましたが」
「ああ、そうだったそうだった」
は于吉に治してもらったと言っておったぞ」
「程普殿、今それを言わなくても・・・」
「于吉を討つのは我輩も異論はない。だが、あれほどの重篤な状態のを治せるのも于吉くらいではないのか」
「あえてを動ける状態になるまで癒やし、今回の孫策襲撃の手駒にしたと?」
「珍しく意見が合うではないか、周瑜」
「・・・孫策、程普殿の懸念には私も同意する。次もまた于吉は卑劣な手を使ってくるとも限らない。気持ちはわかるが逸るのは良くない」



 民は変わらず于吉を神のように崇めている。
病や怪我を癒す彼は、兵からも畏敬の念を集めている。
今の状態で于吉を討つと、平定したばかりの呉郡の民の人心を手放すことになりかねない。
周瑜たちが熟考を促すのもわかる。
わかるが、彼らもまた理解してほしいのだ。
愛する女を苦しませ続けている于吉を殺したくてたまらない男の、荒れ果てた心を。
于吉を殺せるなら君主なんてやめたっていい。
小覇王はたったひとりの友すら救えない。
救えない王など王の器ではない。



「・・・お前たちの意見はわかった。于吉を連れて来てくれ。の手当と引き換えに罪を許すと持ちかける」
「おお、ご英断です孫策殿!」



 早速于吉に出頭をと、于吉擁護派の筆頭だった張昭が議場から慌ただしく出て行く。
彼は内政においては誰よりも調整能力が高い男だ。
民に不審を抱かせることなく于吉を呼びつけるなど造作もないだろう。
今度の選択は間違っていない。
さえ生きられれば、恨みも憎しみも骸になるまで心に抱いていく。
孫策は力なく玉座に腰を下ろした。
頭が割れるように痛かった。

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