曇る都
体の中で、何かが確実に変わっている。
于吉に消されたのは痣だけではなかった。
兆しがくるまで気付けなかった自分自身の粗忽さと無頓着さには悲しくなったが、今は寝台の上で呆けている場合ではない。
は人生において二度と経験することを諦めていた体の処理を終えると、重く痛む腹に顔をしかめながらのろのろと邸を出た。
何もかもがすべて懐かしくて、体が治った喜びを忘れてしまいそうだ。
「ああ、起きたか」
「貴方はなぜここにいるの・・・」
「建業は広いだろう。君が迷った挙げ句に宮城に姿を見せないとなると孫策が気に病む」
「貴方の姿がなくても孫策は同じくらい胸を痛めるはずよ」
「・・・、顔色が悪い」
「貴方って、私が孫策の姿をしてさえいれば何でも見抜いてしまえるの? 私戻ったのよ、に」
「それはまことに?」
そう伝えただけで理解する周瑜は、軍略や政務だけではない賢さがあるらしい。
気付きすぎて怖い、聡すぎて不安になる。
彼の妻が小喬で良かった。
小喬の明るさは周瑜の曇りがちな顔を晴れやかなものへと変え、彼女の暖かな包容力はひとりで考えに籠もりがちな周瑜の心を大きく包み込む。
夜ごと月を肴に一献、いつの間にか寝入っている自分とは見ることができる景色が違うのだ。
明らかに歩く速度を落とした周瑜が、これからはと軍師ではない表情でこちらを見つめる。
これからと鸚鵡返しに呟くが、残念ながら今の生活を変える予定はまったくない。
「孫策が聞けば改めて君を妻として求めるだろうが、受けるのか?」
「どうかしら。孫策は于吉殿があまり好きではないみたいなの。ほら、元々孫策はまじないごとを信じない人でしょう」
「張昭殿から聞いたが、于吉という者は病を癒やす仙人として民の間では崇められているらしい。呉の地を主として治める孫策と衝突しなければ良いのだが」
「治める地の民が笑顔で暮らせるのは、君主としても喜ぶべきことではないの?」
「君の麗しい顔が大輪の花のような笑顔で満たされたのは自分の力によるものではない・・・という事実に妬く男がいるのだ」
「貴方、よくもまあそんなに浮いた言葉を次々と言えるわね。美周郎に言われると満更でもないけれど」
のんびりと歩く足を止め、周瑜と名を呼ぶ。
いくらゆっくり歩いても、そろそろ宮城に着いてもいいはずだ。
建業の街並みにはまだ慣れていないが、これほど大きな城下ではなかった。
なにより異様なのは、また自邸の前を通り過ぎた。
ぐるぐると同じ場所を歩いていたということだ。
と周瑜は顔を見合わせた。
互いの顔ははっきりと認識できるが、周囲はみるみるうちに深い霧に覆われ、いよいよ孫策が待つ宮城が見えなくなる。
「、私の棍は邸にあるか? 勝手に他人の私物を処分する君ではないだろうが」
「小喬殿がお見舞いに来た時は焦ったわ、慌てて物干し竿にしたけど怒らないでね」
「心外な。有事の前の些事に目くじらを立てる私だと?」
異形の都と化した建業の中で唯一原型を留める自邸に飛び込んだ周瑜が、愛用の棍を手に再び隣に立つ。
霧の由来も建業の変貌も、孫策の無事も何もわからない。
賑わっていたはずの街が静まり返り、地面から浮かび上がった半透明の兵士に足が震える。
なぜよりによって戦いにくい今日なのだ。
迫りくる異変に立ち竦んだの腕を、周瑜が強く引いた。