濁る硝子玉
体の調子がすこぶる良い。
少女の時分に若返ったように軽やかで、痛むところがまったくない。
酒も何杯でも飲み干せそうだ。
は既に出来上がっている人々が続出している宴の末席に座ると、目の前の馳走を皿に山のように盛った。
怪我をしていた数刻前まではたくさん食べられないと悔やんでいたが、于吉の不思議な力を与えられた今は食べたいだけ食べられる。
次から次に皿を空にしていくの前に、どんと水が置かれる。
それは俺が作ったのだ。
箸を動かす手を止め向かいに腰掛けた声の主を見上げたは、ぽかんと口を開けた。
「太史慈・・・殿?」
「孫策殿の影武者はお前だったんだな。影とは思わなかった」
「見抜かれないように身体を作っていたので・・・」
「体はどうだ? 飯は食えているようだが、俺は随分とお前を痛めつけただろう」
「死ななかったのが不思議なくらい痛かったはずなのですが、いろいろあって治ってしまいました」
「いろいろ?」
武芸だけではなく料理の才もある太史慈手製の馳走を頬張りながら、宴に来る前の出来事を話す。
太史慈は孫策軍よりも長く江東の地にいる。
于吉という老人や、神仙の力を得た人々の存在も詳しいかもしれない。
の話を黙って聞いていた太史慈が、難しい顔をして腕を組んでいる。
ひょっとしたら、嘘の話を聞かされていると思っているのかもしれない。
太史慈は昔の自分を知らない。
だから尚更、怪我が急に治ったと言われても信じられないのだろう。
あなたから受けた傷は、人知を超えた力を借りなければ瞬時には癒えないのですよとはさすがに言いにくい。
「于吉の力はさておき、殿とこうして相対することができて良かった。まさか孫策殿の影がこれほど麗しい女人とは、無事で良かった」
「はあ」
「、来てたんなら声かけてくれよ! 怪我は? もういいのか? 飯は食えたか?」
「孫策」
随分と饒舌だが、さては太史慈もかなり酔いが回っているのかもしれない。
新参者としてそこらじゅうで振舞い酒を浴びた可能性もある。
周瑜以外からはまず向けられないお世辞にどう返答したものかと言葉を濁していると、酒瓶片手にふらついた足で現れた孫策がの隣にどっかりと腰を下ろす。
は孫策の揺れる手から酒瓶を取り上げると、そっと水を握らせた。
この酒旨ぇなと味わってくれているが、残念ながらそれは正真正銘太史慈が汲んできた水だ。
は太史慈に目配せすると、孫策の背中を撫でた。
ここから先は本物と影の時間だ。
昔から孫策は呑み始めたら長い。
察した太史慈が席を外したことを見届けると、は孫策と声をかけた。
「太史慈はどうだ?」
「間近であの体を見て、改めてよく死ななかったなあと思ったわ」
「俺や黄蓋よりでかいよな。が生きてて本当に良かった。けどもうああいう無茶はやめてくれ」
「何言ってるの、孫策が危険な目に遭わないために私がいるんだから慣れてもらわないと」
「・・・なあ、俺は別に気にしてないんだぜ。お前さえ良ければ、俺はお前を妻に」
「その話はとっくに終わったでしょう? 孫策はお家の柱で、それを残していくことができない私では務まらない。それよりも孫策、私思ったよりも元気だと思わない?」
「え? あ、ああ、そうだな」
于吉って人とご縁があって、治してもらったのよ。
お腹もすごい痣だったんだけどねと見せてもらえない部位の損傷具合を語り続けるの頬に、孫策はそっと触れた。
どうせ治してもらうなら顔も傷ひとつないようにしてもらえば良かったのに、にはつくづく欲がない。
は諦めがついているのだろう。
これではまるで、こちらが未練たらしい男のようだ。
孫策は味のしない酒を一気に呷った。
の背後に見知らぬ老人が立っているような気がした。