悪夢の呼び声
父祖代々伝わる地に、ついに帰還する。
そこは孫家だけではなく、孫家に長く仕える人々にとっても帰るべき地だ。
はようやく訪れた日を前に、愛用の武器を磨いていた。
ここまで長かった。
過去を振り返ろうとして辛くなり、考えることをやめる。
今は前だけ、孫策が進む道だけ見据えていればいい。
彼に降りかかろうとする災厄のすべてを受け止められるように彼になりきってしまえば、今までのすべてが報われる。
そのためにここまで来たのだ。
少し、いいか。
聞き慣れた優男の友人の声に、は武器を磨く手を止めた。
花のように愛らしく太陽のように輝く妻を持つ男が月が出る晩に選ぶのは、傷だらけの体を男装で誤魔化した女らしい。
「夜分に訪ねるなんてどういう料簡かしら」
「主にして唯一無二の友の元を訪ねるのは、そう目くじらを立てるようなことでもないだろう。君は孫策なのだから」
「貴方って本当に都合がいい人ね」
周瑜の言い分は何も間違っていない。
こうして彼が夜な夜な「孫策」の元を訪ねることもまた、良からぬことを企む輩の目を欺くことに繋がっている。
は殊更に大きくため息を吐くと、周瑜の前にどっかりと腰を下ろした。
「劉ヨウの部下に太史慈という将がいる。知っているか?」
「軍議で言っていた大層な武芸者のことでしょう? 腕が鳴るわ」
「君が太刀打ちできる相手ではない。今回は孫策の身代わりはやめてほしい」
「孫策が命狙われるようなことがあるなら尚のこと、私が出番でしょう。貴方、何しに来たの」
「に戻ってくれと言いに来た」
「貴方がそれを言う? 貴方が一番知ってるでしょう、私はもう女に戻れないって、貴方は知っているでしょう・・・!」
落ち着いてくれとあやすような声と共に伸ばされた手を、荒々しく振り払う。
周瑜だけは知っている。
戻れるならとっくに戻っている。
求められるがままに孫策の腕に縋っていた。
それがもはやできないとわかっているだろうに、彼はあの日伝えられた事実を事実と受け入れていないのだろうか。
は、孫策と揃いの衣装に手をかけた。
布と鉄板で覆い隠した鎧の下は、癒えきらなかった切創と痣の跡ばかりだ。
忘れたの、ねえ、周瑜。
美しさの欠片もない裸身を顔色ひとつ変えず凝視している周瑜に、は静かな声で呼びかけた。
「袁術軍に身を寄せていた頃に引き取られた先の主は、びっくりするほど乱暴な人だった。それまでに仕えてた女の子たちは可哀想にみんな死んで、私はこのとおり体だけは頑丈だったから死ねなくて、いっそ死んだ方がましなんじゃないかって思えるくらいに死にたくなるような毎日だった」
「・・・そうだな、君の主を袁術討伐の機に乗じて殺すように指図したのは私だ」
「殺してくれたのも貴方よ。覚えているなら二度とこんなこと言わないで、お願い」
は、戻るあてもなくなった彼女を泣き笑いながら出迎えた孫策の姿を覚えているのだろうか。
周瑜はそれきり黙り込んでしまったに脱ぎ散らかされた衣をそっと肩にかけた。