そもそも、あの時私と岱兄上って二手に分かれる必要はなかったんじゃないの?
だって兄上だったら1人でもなんとか生きてけるでしょ。
白馬は誰が姫を乗せる 2 めざせ単身国境越え
が選んだ道は、お世辞にも街道とは呼べない体裁をなしていた。
なんとか人馬が通った後はあるが、2,3歩村に入り込むと高い確率で迷子になりかねない。
有事の際に身を隠すにはうってつけかもしれない。
けれども、は自分に敵の追っ手が迫っているのを確信していた。
まぁおそらく従兄の方にもいくらか人数を割いているだろうが、向こうは距離が稼げなおかつ行き着く先がはっきりしているだけ役得だった。
「ただでさえこんな道ならず者とか追いはぎとか棲んでそうなのに、まさか岱兄上知ってて私を寄越したんじゃないでしょうね」
はふと兄を思い起こした。
西涼の錦馬超、槍を執れば一騎当千と謳われる猛将だ。
少し、いやかなり単純で正義がどうとかうるさく喚く点にさえ目を瞑ってくれれば、劉備とかいう男の下でも働くことができよう。
素行も決して良くはないが、それも集団行動及び生活の中で改善されるはずだ。
酒癖の悪さとかも、度重なる祝宴の中で矯正されてくれればなおのこと良い。
兄の再就職にはなんら問題はないのである。
計らずも妹と従妹が殿軍を務めているので、曹操に捕らえられることもないし。
あまりに快調に馬を飛ばすものだから、もしかしたらもう益州の劉備の支配下に入っているかもしれない。
は兄の面影を脳内からばっさり切り捨てると馬を止めた。
信じられない光景が目の前に広がっていた。
かつては橋が架かっていたのであろう。
腐食した木の屑がそれを物語っていた。
橋がなければこの峡谷を越えることはとてもじゃないが無理だ。
いかに涼州で馬に囲まれた生活を送っていたとしても、だ。
「背水の陣の方がまだマシだったかも。これ落ちたら即死だし」
馬から下りて恐る恐る崖の下を覗き込む。
吸い込まれそうな深さにはくらくらした。
近くに別の橋がないかと辺りを見回すが、どうやらここにしかないようだ。
その酷使が今回のような唯一の橋の崩壊へと繋がるのだ。
さて困ったどうしようとが思案していると、彼女の足元に1本の矢が突き立った。
遂に追っ手に見つかってしまったらしい。
先頭を駆けている男の手には弓が握られている。
あの距離から狙い撃つとは、かなりの遣い手と見た。
「・・・岱兄上はちゃんと兄上に追いついたかな。兄上の野生の勘を見習っとくんだった」
は顔を引き締めると馬にまたがった。
手元に武器らしい武器はないが、何の抵抗もせずに捕らえられたり殺されたりするのでは、彼女の矜持が許さなかったのだ。
「ありゃあ、見つけたかと思ったらお嬢ちゃんかい。こりゃしくじったなぁ」
どっしりとした体格の男が馬上で盛大なため息をついた。
そりゃそうだ、こんな山奥深くまで追いかけたのに目標人物は手の届かない所に逃げていたのだ。
大手柄を逃してさぞかし悔しいことだろう。
「私を殺す気? 簡単に死ぬ気はないんだけど」
「いやぁ、錦馬超の身内ともなれば威勢がいいもんだなぁ。でもま、殿の命令だから大人しくやられてくんねぇかなぁ」
名のある将軍であろうこの男は豪快に笑うと、矢をに向けて構えた。
そんな強弓、急所に当ればひとたまりもない。
また、仮に急所を外したとしても捕虜として曹操の元に送られるのも痛すぎる。
兄や従兄の人生の枷になどなりたくなかったし、女であるからという理由だけで生き永らえたくもない。
矢が放たれる。は馬首をめぐらして第一矢を避けた。
さすがは乱戦の中をひた走ってきた馬だ。
たかが1本の矢に怯えたりはしない。
肝が据わっているというかなんというか、神経が図太いのかもしれない。
「お嬢ちゃん、あんまりちょろちょろしたら下に真っ逆さまだぞ」
「落ちたら拾ってくれるの?」
「うーん、無理だろ。こんだけ深けりゃ俺みたいな図体の奴でも死んじまうって」
彼の部下の1人が夏候淵将軍、と慌てた声で叫んだ。
いつまで経っても小娘1人仕留めようとしない上官に焦りを感じたのだろう。
下らない世間話をしている暇があったら、とっとと殺すなり捕まえるなりしろということか。
「いやぁ、でもこんなお嬢ちゃんをあっさり殺すってのもかわいそうで。それに「あ、虎」
は夏候淵の背後に見え隠れする黄色と黒の物体を指差した。
彼女の指につられるように相手もそちらを見つめる。
すると注目されていることに気付いたのか、巨大な一頭の虎が飛び出してきた。
逃避行の間にいったい何度出くわしただろうか。
明らかに人食いだろうと思われる老虎だって見た。
それでも怪我ひとつなくここまで来れたのは、ひとえに兄のおかげだった。
だが、今ここに兄はいない。
果たして曹操軍にその人ありと知られる夏候淵に倒すことができるのか見ものだった。
「し、将軍!」
「わーかってるって。お嬢ちゃん、ちょーっと待っててくれよ。先に虎を片付けるからよ」
は黙って頷くとそっと木陰に身を寄せた。
どうせここから逃げられないのだ。
どうせなら虎に噛み殺されちゃえばいいんだ、この人たち。
そんな非道な発想をしていると、不意にの馬が暴れだした。
突然の虎の襲撃に慌てたのか、獣としての勘が戻ってきたのか。
暴れ狂う愛馬を懸命に宥めていると、ははっと思い出した。
「・・・この馬、兄上が選んでくれたやつだったっけ。虎見て兄上みたく興奮しちゃったってわけ」
本来ならば頼もしいかもしれないこの愛馬の威勢の良さが、この時ばかりはに災いした。
ずっと駆けてきてどこにまだそんな力が余っているんだというほどの馬鹿力での体を振り払った馬は、あろうことが持ち主に向かって突進してきたのだ。
これにはも耐えきれず、その華奢な身体が吹っ飛んだ。
しかもさらに運が悪いことに、思いかけず足を木の根に引っ掛けた。
身体が後ろ向きに崩れる。はとっさに後方を見た。
地面が見当たらない光景にさあっと蒼ざめた。
「あ、あ・・・・、えっと将軍!?」
「うげ、お嬢ちゃん!?」
ようやっと虎を始末した夏候淵がの叫びに振り向いた時には、彼女の身体は深い谷へと吸い込まれようとしていた。
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