縁儚し恋せよ姫君     3







 尚香殿のお気持ちを考えると辛うございますと眉根を寄せ呟くを、驚きを込めて見つめる。
たとえ相手が惹かれ合う男であろうと容赦なく刃を向け自室を灰にまでした苛烈な気性のが、2つの国の間で揺れ悩んでいるであろう尚香を案じている。
珍しいこともあるものだ。
思わずそう呟くと、いつになく鋭い目で見つめ返される。
さすがはあの曹孟徳の娘だ、ともすれば怯んでしまいそうな眼光の鋭さがある。





「姫様にはこちらに帰って来ていただくことになるでしょう」
「尚香殿が本当に戻って来られるとお思いですか? 尚香殿は政略結婚とはいえ、劉備殿を愛したからこそ笑顔で嫁がれたのです。わたくしは尚香殿が戻られるとは思いません」
「・・・それは殿に置き換えても同じだと思っても良いということですか?」
「わたくしと?」
「賢い殿ならばとうに気付いているでしょうから、私も隠さずに話しましょう。我が国は今、殿が言うように確かに曹魏と手を結んでいます。臣従と言ってもいいかもしれません。
 あちらは、赤壁で死したはずの公主が生きて、しかもここにいると知ったかもしれません。臣従の印として、今までこちらが預かっていた公主を返せと言われることもあるいはありうる話です」
「まさかそのようなこと」
「もちろん返しません。返すわけがありません。殿は預かりものではありませんし、借りた覚えもありません。あなたは凌統殿が奪ってきた戦利品ですから」




 戦で得たものを返すわけがないでしょう。
物扱いされた本人の前で淡々と言葉を続ける陸遜を見ていられなくなり、顔を伏せる。
冗談で言っているのだろうが、それにしては心の臓に悪い。
彼の言いようでは、孫権軍がいよいよ危うくなった時は命乞いのために引き渡されることもあるかもしれないと思ってしまう。
そうすることが凌統の命を永らえることになるのであれば致し方ないが、こちらの心情としては絶対に避けたい事態だ。
陸遜は急に勢いを失くした好敵手に笑みを浮かべると、安心なさいと穏やかな声音でに告げた。





「私たちは殿のことを仲間だと思っています。それに、あなたは私にとっては数少ない身内・・・なのですから」
「わたくしは、陸遜殿を身内とは今でも思えませぬが・・・」
「ええそうですね、あなたを元気づけようとした私が浅はかでした!」






 だから、どうして彼女はいつも余計な一言が多いのだろうか。
陸遜は気分を変えたかったのかそれきり尚香の話をやめ、市場の状況を始めたを恨めし気な目で睨みつけた。








































 俺も男だ。
言いたいことがあればずばりと言うし、やりたいこともずばりと切り出そう。
朱然は今日も訪れた甘味処で働くの背中を眺め、ぐっと拳を作っていた。
戦が迫っている。
倒すべき相手が曹操軍ではなく荊州関羽軍だったことは意外だったが、難しく厄介な外交は都督たち頭脳派に任せておけばいい。
戦場で武を奮う者は、相手が誰であろうと死力を尽くして戦うだけだ。
今回の戦いはあの軍神関羽が相手である。
いかに呂蒙や病床の彼の後任と目されている陸遜が策を弄していようと、激戦は避けられないだろう。
だから、戦場から帰還した暁にはご褒美をもらってもいいと思う。
かつて曹操の息子曹丕は、官渡の戦いで甄姫という他人の妻だった絶世の美女を手に入れ自らの妻としたという。
妻とまではいかなくとも、恋い焦がれる女性に想いと情熱をぶつけるくらいはしてもいいと思う。
風の噂では、凌統も戦で奪った女を傍に侍らせているという。
無理に奪ったから今つれないのだと思っているが、それを口に出そうものならば出陣の前に首が跳ね飛ばされそうなのでやめている。
ひょうひょうとした性格の凌統だが、甘寧が軍に入ったばかりの頃はそれはもう荒れていた。
ああいう男が怒った時は一番怖いのだ。
朱然は凌統を刺激するようなことはしないと改めて心に誓うと、茶を注ぐために歩み寄ってきたに声をかけた。
しつこく尋ねようやく教えてくれた名は、彼女によく似合う綺麗なものだ。
何度口にしても嬉しくなる名を、朱然は柔らかな声で呼んだ。





「何か?」
殿、私はこう見えても武人なのです」
「左様でございますか」
「自慢ではありませんが、兵を率いる将としての役目を仰せつかっているのです」
「・・・では、公績殿のお知り合いでしょうか・・・」
「え?」
「いいえ、何も。将軍ともあろう方がこのよう場にいてよろしいのでございますか?」
「私は・・・、私は、殿に会いにここにこうして毎日来ているのです」
「わたくしに?」
殿、私のことは嫌いですか?」





 突っ立ったままのの手を取り、澄んだ黒目をじっと覗き込む。
やんわりと外されようとする手を離すまいとより強く握り込むと、戸惑いの表情を浮かべられる。
好きな女が自分のことで心を動かしている。
困惑顔もまた美しい。
美人はどんな顔をしても綺麗だ。
朱然はの整った唇を見つめた。
今にも喰らいつきたい、肉まんよりも美味しそうな魅惑の果実だ。






殿、私が戦から帰還した暁には、私の想いを受け止めてくれませんか?」
「それはできかねるご相談です」
殿は私が嫌いですか」
「いいえ。好きとも、嫌いとも思ったことはございません。わたくしは見ての通り市場で働くただの女。将軍のような高き身分にある方が目にかけるような大層な者ではございません」
殿は、あなたが言うような高貴な身分の女たちよりもよほど品があります。もしや殿は、いずこかの豪族の娘では?」
「わたくしが何者であれ、わたくしはあなた様のお気持ちに応えることはできません。なぜならわたくしには」





 お慕いし、愛して下さる方がおりますゆえ。
ようやく初めて笑みを見せ恥ずかしげに告げられたの告白に、朱然の顔がひくりと引きつった。







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