マリオネットは夢を見る     8




 やってしまった。
今度こそ邸と荀攸の側に留まることができなくなってしまった。
は水面に映る意気消沈した自らの顔を見つめ、はあと長い息を吐いた。
匂いを嗅いだ瞬間にまずいと思った。
噂には聞いていたが、あれは本当に虎を酔わせ操ることができるらしい。
媚涎香(びぜんこう)と、知る人々は呼んでいた。
説明する手間もいらない文字通りのそれは、虎よりも遥かに体が小さな人体に使うと酔うどころか狂ってしまう。
焼け落ちた洛陽で香もろとも焼失していてほしかったが、必要とする人が持ち出してしまったのだろう。
ろくでもない輩に決まっている。
おかげで荀攸に醜態を見せてしまった。
彼には出会ってから今日までずっと醜い姿しか見せていない気がする。
優しい荀攸はそれすら受け止めてくれるが、今日はついに拒絶してしまった。
終わりだ。



「おや、殿?」
「ひっ・・・・・・」
「・・・随分と顔色が悪いけれど、具合が悪いのかい? 荀攸殿は?」
「郭嘉様、ああ、郭嘉様、あの、教えていただきたいことが」
殿?」
「最近、変死体や廃人が見つかってはいませんか?」
「・・・ごめんね、荀攸殿を呼んできてくれるかな」



 郭嘉に手を引かれ歩いていた女童が、郭嘉の頼みにはぁいと声を上げ邸へ駆けていく。
の隣に腰を下ろした郭嘉が、物騒だねと呟く。
君の体調不良との関係は?
郭嘉の問いに、は顔を伏せると小さく頷いた。



「先程、許昌を発つ車を引いていた馬が暴れ事故が起こりました」
「夏侯惇殿から聞いている。荀攸殿たちも居合わせたとか。怪我がなくて良かった」
「馬には薬が盛られています。元は虎を酔わせる香ですが、同量を人に使うと死ぬか使い物にならなくなります」
「詳しく」
「元々あれを使っていたのは洛陽の宮殿に仕えていた虎使いでしたが、董卓軍が来てからは兵たちは主に宮女に使うようになりました。楽だから」
「たまたま曹操殿がその場に立ち会っていたわけではなさそうだね。殿の顔色がすこぶる悪い理由もそれだね」
「・・・恐れ入ります」



 郭嘉はの横顔を見つめた。
顔だけでなく、髪も僅かに濡れている。
決して清純ではない水路で流れる水だったとしても、おかしくなりそうな頭を冷まそうとしていたのだろう。
それで体の火照りが収まるとは思えないが、も必死だったはずだ。
荀攸から逃げ、人目からも逃げ、逃げた先で見つかってしまった。
保護できてよかったと思う。
今の彼女は直視しがたい暴力的な危うさがある。
可愛いあの子は荀攸をここまで連れて来れるだろうか。
できるだけ早めに来てほしい、このままではが風邪で寝込んでしまう。
荀攸様、こっちこっち!
待ちかねた小さな援軍の到着を、郭嘉は立ち上がり出迎えた。

































 郭嘉が危険な可愛がり方をしている女童が走って邸に現れた。
ついに郭嘉が手を出したのか、程昱から逃げてきたのか、李典の邸と間違えたのか。
小さな子どもに大きな声で名を呼ばれた荀攸は、落ち込み卓上に突っ伏していた顔をゆるゆると上げた。
お菓子はそこですよと告げると、任務に忠実な子どもが違うのと反論する。
さすがは大きな泣き声で存在を知らしめた逸話を持つ女童だ、耳がきんとした。
相手がいかなる状況であろうと臆することなく任務を遂行するよう教えられているだろう、立派な心掛けだ。
荀攸は立ち上がると、子どもの視線と合うよう身を屈めた。



「いいですか、ここは戦場ではなく俺の邸なので声量は控えめで」
「でも大きな声でお返事するのはいいことだって曹仁様と曹休様が褒めてくれました!」
「では俺と今から内緒話をしましょう。声は抑えて、できますね」
「はい!」
「よくできました。それで用件は?」
さんがびしょ濡れで具合悪くて、郭嘉が荀攸様呼んできてって」
殿が!?」
「荀攸様、声大きい・・・」



 砂煙と喧騒と拒絶された衝撃で茫然自失としている間に見失っていたが、今にも死にそうだという。
思い返してみれば、拒絶された時のは平時と様子が違っていた。
馬とのやり取りで興奮して頬が紅潮していたのではなく、本当に具合が悪かったとは。
では、拒絶したのも体調不良で機嫌が悪かったから?
病を移したくないと思ったから?
急報を告げ道案内を始めた女童をつまみ上げ背負い、懸命に走る。
あっち、こっち、次は右とどんどん人気のない路地へ入り込んでいき不安が増大する。
郭嘉はなぜ子どもをこんな場所へ連れ込むのだ。
本当に子どもに手を出すつもりだったのでは。
路地にはろくなことがない。



「あ、郭嘉!」
「おや、背負ってもらったのかい? いいね、私も今度は抱いてみようかな」
「それは李典が駄目だって」
「郭嘉殿、殿は」
「荀攸様・・・?」



 郭嘉の背に隠れていたの姿が少しずつ露わになる。
顔色が悪く、頭から水路に落ちたのか顔も髪も濡れている。
ご迷惑しかかけられなくて申し訳ありません。
頭を深く垂れ謝罪の言葉を続けるの髪から、ぽたりぽたりと水滴が落ちる。
荀攸は懐を探った。
に押しつけられ仕舞い込んでいた布に指が触れる。



殿」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「帰ってきてくれますか?」
「でも・・・」
殿」
「・・・はい」



 がゆっくりと顔を上げる。
荀攸はの顔に布を添えると、水か涙かわからない雫を丁寧に拭った。





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