マリオネットは夢を見る     9




 邸に連れ戻された途端、置き去りにされた。
休んでいてくださいと浴場を案内され、それきり邸の主は消えてしまった。
荀攸なりの気の遣い方なのか、距離の置き方なのか彼の真意がまったく読めない。
はじっとりと濡れた衣を体から剥ぎ取ると、湯を頭から被った。
媚涎香の匂いは消えたと思う。
直接浴びたわけではないので自我は失われていないはずだ。
ただ、何をするのか自らの行動に自信を失くしたので荀攸の前から姿を消した。
あれが流行り出した頃には既に王允の邸で飼われていたので滅茶苦茶な量を使われたことはないが、少々の耐性はあると思う。
生き残った者だけが人として生き延びられる甘くて危険な代物だ。
荀攸もひょっとしたら媚涎香に勘づいたのかもしれない。
だから面倒に巻き込まれる前に距離を置き、自邸なのに場所を譲った。
賢明な判断だと思う。


「潮時、かな」



 もはや彼の側に居続けるのは無理だった。
荀攸の役に立つどころか、彼の足を引っ張ってしまう。
優しい荀攸は行く当てがない自分を追い出すことはないだろう。
だったら、こちらから出ていけばいい。
生きていく術は選ばなければいくらでもある。
西域との交流が盛んな西へ行けば、目立つ色合いの容姿も好意的に受け入れられるだろう。
董卓とはついぞ会ったことはなかったが、彼の子飼いだった涼州軍閥の将たちはのめり込んでくれた。
覚えておく意味がないので名前は忘れたが、李某といったか郭某といったか。
あれらは粗野な振る舞いで事後の手入れに難儀したので、できれば今度は穏やかな男がいい。
言葉を尽くさずとも、勝手に溺れてくれる男なら尚良い。
は浴場を出ると、真っ直ぐ邸の門へ向かった。
前方から男が駆け寄ってくる。
主の帰還にはすすと脇へ退いた。



殿、どちらへ」
「あ、えっと、ちょっと外へ」
「今からですか? 許可しかねます」
「でも私」
「薬を入手しました」
「薬・・・があるのですか!?」
「はい。今の殿に必要なのは休息です」



 初めて言葉を交わした時も似たようなことを言われた気がする。
邸に入った荀攸が殿と呼びかける。
優しい彼の善意と好意を無碍にすることはできない。
は小さく頷くと、荀攸の後に続き部屋へ入った。

























 嫌な色と粘り気をしている。
これは本当に薬かと、疑念の目で荀攸を見つめる。
一息にと返され両手で器を持ち上げる。
白く濁った粘性の高い薬湯が喉に苦みを知らしめる。
吐き出しそうになり前屈みになると、荀攸が咄嗟に片手を口に当てる。
酷いことをする。
気合で嚥下したは、口を押さえ続けている荀攸を見上げた。
口を開けてと言われるがままに口内を晒す。
残留物がないことを確認したらしい荀攸が大きく息を吐く。
良かったと荀攸が呟いた。



殿が死ななくて良かった」
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「いえ、俺の方こそ無遠慮に触れてしまいました。気が動転していたとはいえ、妙齢の女人に対して許されることではありません」
「・・・あの、私、ここを出ようと思います」
「俺に正すべき点があるのなら対処します。ですから、殿はこのまま」
「私では荀攸様のお役に立つどころか、足手まといになってしまいます」
「俺は殿にそんなことは望んでいません」
「では荀攸様は私に何を望まれて今日までお側に置いているんですか?」



 それはと言い淀んだ荀攸が目を逸らす。
まただ、また彼はこうやって有耶無耶にしようとする。
牢から連れ出された時からずっと言葉を待っていた。
伝えなければならないことがあると言われ、いつ伝えられるのかずっと待っていた。
今日も彼は何も言ってくれない。
本当に言いたいことがあるのか、今ではその事実すら疑っている。
何をすれば荀攸は口を割ってくれる?
どうすれば頑なな男の心を揺さぶることができる?
いっそ落としてみようか、この男も。
は無言で立ち上がると門へ足を向けた。
顔を伏せていた荀攸が背後で身動ぎする気配を感じる。
呼び止める声に耳を貸さず、足を止めることもしない。

殿!
何度目かの呼びかけとともに腕を強く引かれ、力に逆らうことなく荀攸に体当たりする。
優しい荀攸はこちらが怪我をすることを避けるため、下敷きになってくれると思っていた。
は仰向けになった荀攸に馬乗りになると、ねえ、と口を開いた。



「私に伝えたいことはもう言いましたか?」
「・・・まだです」
「本当にそんなものあるんですか?」
「・・・・・・あります。殿、上に乗るのはその、できれば速やかに退いてもらえれば」
「こうしていても荀攸様は私を見てくださらないんですね、かなしい」



 この期に及んでも顔を逸らそうとする荀攸の耳元に片手を添える。
指の皮だけ僅かに触れるようにそっと動かすと、荀攸の体が小さく跳ねる。
髪に隠れていた耳も擽ると、横を向いてばかりだった荀攸がようやく正面を向く。
顔が紅くなっている。
にっこりと笑いかけると、荀攸が両手で自身の目を覆う。
確信した、荀攸はこちらを嫌っている。
今まで様々な扱われ方をしてきたが、笑んで嫌な顔をしたり顔を背ける男は一人としていなかった。
荀攸が初めての男だった。



殿、もう充分です」
「荀攸様ごめんなさい、私やっぱりここを出ます」
「は・・・?」
「もう言葉もいらないです」
殿」
「私には何のお礼もできないんですが、このままではお辛いでしょうから最後までお務めしますね。まあ、私が煽ったんですけど」
殿、薬はまだ」
「抜けててもできるのでお心安く」
「そうではなくて!」



 驚いた。
終始無言で、口を開いても何を言っているのか聞き取りにくい控えめな声量の荀攸が大声を上げた。
顔を寄せようとしていたため、至近距離で浴びた大声に思考が一瞬停止する。
荀攸と床を映していた視界ががらりと変わり、天井が見える。
首に絡めようとしていたはずの腕は目標を失い、だらりと垂れている。
不意を突かれ荀攸に横抱きにされている。
不敬が極まり井戸に捨てられるのかもしれない。
洛陽ではそんな遺体があったと聞く。
足で荒々しく寝所の戸を開いた荀攸が、深く長く息を吐く。
今まで気付かなかったが、彼の呼気は荒くて甘い。



殿のお気持ちはよくわかりました」
「はい」
「俺と相容れるものではありません」
「やっぱり・・・」
「言葉と行動、殿はどちらで伝えた方がより響きますか」
「ええと、そうですね・・・」
「返答に焦れているので、同時に進めます」



 寝台に置かれるなり荀攸に口を塞がれる。
甘い匂いがするが、彼も激苦薬を飲んだのだろうか。
道理で先程は感度が良かったわけだ。
なんだ、やはり香のせいで荀攸は錯乱しているだけだ。
予期せぬ熱の捌け口としてでも役に立てるのならばそれでいい。
それが元の生き方で、務めだったのだから。
いつものように目を閉じる。
閉じないで、俺だけを見てください。
目を開けた瞬間ばちりと目が合い、の体温が上昇した。





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