プロトタイプは恋をする     2




 父親は娘に甘い。
当たり前だ、貂蝉は中原で最も美しく優しい最高の姉だ。
結局王允は姉を外へ出すことを許さなかった。
はひとりでのんびりと洛陽の市街を歩きながら、噂の鳴く壁とやらを探していた。
政治や戦のことは貂蝉に教えてもらう以外のことは何もわからないが、確かに最近の洛陽は以前よりも色褪せて見える。
商店に並ぶ品々も質が落ちたように見えるし、肉まんもひと回り小さくなった気がする。
なによりも、疲れた表情をしている人が増えた。
王允邸は変化がないので外に出るまで気付かなかったが、帝の威光は本当に翳ってしまいつつあるらしい。
は冴えない表情の店主から肉まんを受け取ると、あのうと声をかけた。



「この辺りに世にも珍しい鳴き声を上げる壁があると聞いたのですが、ご存知ですか?」
「鳴き声? 断末魔の叫びの間違いじゃないのかね」
「うーん、噂が変わってしまったのかしら。にゃあと鳴くとお姉様からは教えてもらったのですが」
「ぎゃあと叫ぶ声なら宮殿から毎日聞こえてくるが、お嬢さんまさか、城に行くつもりじゃあないだろうね」
「鳴く壁の真相をお外に出れないお姉様に教えてあげたいんです」
「やめときな! あんたみたいな別嬪さんなんて特に近付いちゃいけない、あっという間に董卓軍の化け物どもに喰われちまう」
「城では化け物が飼われているのですか!?」



 鳴くか叫ぶかわからない壁よりも、およそ見たことがなさそうな化け物の存在が俄然気になってきた。
貂蝉もきっと、見たことも聞いたこともないような化け物の話の方が興味深く聞いてくれるに違いない。
犬や猫、鳥でもない化け物とはどのような姿をしているのだろうか。
呼べば足を向けてくれる利口さはあるだろうか。
喰われるということは、ひょっとすると熊や虎よりも大きなもの?
は肉まんを齧ることも忘れ、宮殿と市街を隔てる壁に沿って歩き始めた。
鳴かない、鳴かない、にゃあ、鳴かない。
微かに聞こえた猫のような鳴き声に、慌てて疑惑の壁へ取って返す。
そこに誰かいるの?
鳴き声の主に向かってそっと呼びかけると、壁の向こうからまったく同じ、そこに誰かいるのかと返事が返ってくる。
鳴き声の主は人の言葉を話すのだろうか。
は壁に耳を当てると、猫ではないのですかと問い返した。



「あなたは人の言葉を解す猫なの?」
「・・・私を愚弄しているのか」
「ではあなたは猫ではなくて、ええと、どなたかしら」
「・・・お前は何者だ」
「私はといいます。お姉様から鳴く壁があると教えてもらい、まさににゃあと鳴く壁を見つけたのですが・・・」
「私は猫ではなく、董卓殿に仕える将だ。深くは言えぬが、城と市街を隔てる壁は二重構造になっている。猫はその間に入り込んだのではないか?」
「壁と壁の間は広いですか? 猫は自力で出られそうですか?」
「・・・しばし待て」



 放っておけばいつまでも続きそうな女の問いかけを強い口調で止める。
異形の壁の存在は、兵たちの間でも噂にはなっていた。
董卓に処断された人々の怨嗟の声が刻まれた壁と恐れ慄かれ、誰も近寄らなくなった場所だった。
市民には面白おかしく伝わっているようだが、見物されるのは警備上もよろしくない。
むやみに城に近付いたとして罪人にされるかもしれない。
何の罪もない市民を獄に繋ぐようなことがあってはならない。
だから、誰もやりたがらない怨嗟の壁の巡回を希望した。
壁は毎日時間を問わずずっと鳴いている。
にゃあにゃあと、悲鳴にしては可憐すぎる声で。



「壁から離れよ」
「でも」
「今から私がすることは決して誰にも話すな、良いな」



 周囲に誰もいないことを確認し、勢い良く地面を蹴る。
壁にあるわずかな凹凸を利用し壁の上に登り、もう一枚の壁との隙間を覗き込む。
痩せ細った猫が心細そうににゃあと鳴いている。
自力で登るには難しい狭さの壁と壁の隙間で、懸命に鳴いている。
どうですかと、壁の向こうから女の声が聞こえる。
猫と自分、どちらを心配しているのかわからない。
壁の上から女を見下ろす。
各地へ赴き転戦してきたが、陽に照らされ輝く麦色の髪を持つ女を初めて見た。
胸の前で両手を組み、心底心配そうな表情で見上げてくる大きな瞳は栗毛の馬を思わせる明るさで、白い顔で紅く色づく頬によく映える。
美しいと、思わず唸った。



「猫はどうですか? 足元には気を付けて下さい」
「大事ない。こうして紐を垂らせば猫も・・・っと」
「にゃあ!!!」



 垂らした紐を器用によじ登った猫が、ひときわ大きな声を上げ顔を足蹴する。
肉球がぷにぷにする。
猫の柔らかな足蹴を堪能し、再び女を見下ろす。
壁の隙間から脱出した猫が、女の胸で心地良さそうに丸まっている。
じいと見下ろしていると、女がにっこり笑い返す。
目が合っているとようやく気付いた。



「ありがとうございます。ほら猫もちょっと痩せているけど元気みたいで」
「・・・」
「これでお姉様にもご報告できます。あ、でも、鳴きの壁はなくなってしまいました」
「張文遠」
「文遠様と仰るんですね。ありがとうございます文遠さま。またお会いできますか?」
「・・・この地点が私の巡回の任務だが、支障がないのであれば」
「では明日はお礼に伺いますね! この子も連れてきます、ふふふ」



 文遠様はお優しい将なのですね。
にこにこと笑い続ける心優しい変わり者の美女に背を向けると、張遼は緩みかけた顔を引き締め壁から飛び降りた。





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