プロトタイプは恋をする 4
壁の向こうから、にゃあと猫の鳴き声が聞こえる。
本当に来た。
張遼は周囲に兵がいないことを確認すると、音もなく壁際へ寄った。
ごほんと咳払いすると、文遠様ですかと若い女の声が聞こえてくる。
またお会いできて嬉しいですと屈託なく話す声に、張遼はそうかとだけ答えた。
さすがに今日は壁を越えることはできない。
もちろん彼女を宮中に招くこともできない。
誰にも見せたくない、自分だけが愛でたい花のような人だった。
「先日はブンを助けていただいてありがとうございました」
「ブン?」
「文遠様に助けていただいたので、優しくて勇敢な文遠様のお名前をもらいました。駄目でしたか?」
「いや、もう少し捻った名の方が良いのではと案じただけだ」
「お姉様も似たようなことを言っていました・・・」
「だが、殿が気に入っているのであればその名で良いと思う」
「そうですよね! 良かったねブン、お前はこれからもブンよ」
名を貸したのだから、一瞬で良いので体を貸してもらいたい。
猫の代わりに撫でられたい。
の心地の良さそうな指で触れてほしい。
たった一度見ただけなのに、の美しい容姿が忘れられない。
宮殿の近くまで出向く危険を侵す彼女の身を案じながらも、彼女との逢瀬を重ねたいから止められないでいる。
罪があるのかないのか定かでない民の悲鳴や、下卑た兵に襲われ震える官女たちの泣き叫ぶ声よりも、穏やかで明るく美しいの取り留めのない話にずっと耳を傾けていたい。
張遼は壁に凭れかかると、の歌うような声音に目を閉じた。
は楽士を目指しているという。
きっと天女の調べのような音色を響かせるのだろう。
宮殿で宴が催される予定はあったかなと、先の予定を思い出す。
ひとりであれば、無理やり枠にねじ込むことはできなくもない。
そうすれば堂々と彼女を正面から見ることができるし、の願いも叶う。
だが、を我が物にしようと思う輩も当然現れるだろう。
は目立ちすぎる容姿だ。
「そういえば董卓軍は化け物を飼っていると聞きました。文遠様は見たことはありますか?」
「化け物? 虎ではなく?」
「虎も飼っているのですか? 可愛いですよね、お腹を撫でると甘い声で鳴くところとか!」
「撫で・・・? ・・・殿、董卓殿が虎を飼っていることは内密にしていただけぬか」
「わかりました。それで化け物ですが、なんでも若い女が好物だそうです。だから宮殿には近寄らない方がいいと街の人は言っています」
無邪気というか世間知らずというか、あまり物事を深く考えない性質の人なのだと思う。
化け物を言われたとおり未知の獣と認識し、まさしく世間から化け物と呼ばれている人物に正体を尋ねている。
自分のことだと答えれば、はどんな反応をするだろうか。
今ばかりは表情を窺い知ることができなくて良かったかもしれない。
真の意味を知って恐怖するは見たくなかった。
「・・・化け物のことは私も耳にしたことはある。殿が聞いたものとさして変わらないゆえ、宮殿に近付く際はくれぐれも用心してほしい」
「化け物は見た目でわかるものですか?」
「往来で徒党を組み、大声で話す者。酒の臭いを漂わせている者。兵の身なりをしているが薄汚かったり、雑な装いをしている者。あとは・・・」
「化け物は人だったんですね」
「・・・董卓軍の兵の中には統率が取れていない者もいる。そして私も董卓軍の一員だ」
「はい、知っています。明日もお会いできますか?」
「これだけ話して聞かせたのに、なお私に会おうとするのか」
「お会いになりたくないなら辞めますが・・・」
がそう言ったきり黙り込む。
返事次第では、はもう二度と現れない。
選ぶのは自分だ。
選び、そのうえで彼女を守り通さなければならない。
果たして自分にそれができるのか。
数分の沈黙の後、張遼はまた明日もと掠れる声で答えていた。
が人の心を喰らう美しい獣に思えた。
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