プロトタイプは恋をする 5
帝主催の大規模な宴が行われるらしい。
おぬしも行って参れと王允から伝えられたは、はあと気の抜けた返事をした直後、ええっと小さく悲鳴を上げた。
宮殿には近付くなと散々言われていたはずが、突然の参内。
主のことだ、きっと理由があるに違いない。
王允が求めるものを見聞きして持ち帰らなければ、暴虐残忍と名高い董卓の統治下では生き残れない。
は居住まいを正すと、改めて王允を仰ぎ見た。
ご命令はと問いかけると、生きて戻れとだけ返される。
そんなはずはない、王允が真に得たいものを探るのだ。
なおもじいと見つめ続けていると、王允がはっはっはと鷹揚に笑った。
「宮女が足りぬゆえ人を出せという達しがあっただけじゃ。楽士としての出番もあるやもしれぬぞ?」
「ですが生きて戻れとは?」
「ふぅむ、近頃宮女が変死体や廃人に近いかたちで見つかることが多いそうでの。まあ理由はわからぬでもないが・・・」
「董卓軍の仕業ですわ。お養父様、そんな場所にをやらないで下さいませ」
「とはいえ我が邸のみ誰も出さぬというわけにもいかぬ。よ、行ってくれるな」
「かしこまりました、精一杯務めてまいります」
当たり前に過ごし帝に仕えていた宮女たちが、突然気が狂い変死を遂げるわけがない。
文遠が以前ちらと話していた虎が気になる。
虎を扱うのは実は難しいらしく、虎使いは初めのうちは虎を酔わせ弱らせたところで上下関係を叩き込むらしい。
宮女として仕える女たちは皆美しく、世俗の汚れとは無縁の清らかな存在だ。
恐怖に顔を歪ませ泣き叫ぶ女を好む男もいるだろうが、大多数はそうではないと思う。
手間が省けるから使っているのだろう。
誰だって痛いのは嫌だ、初めは誰でも痛いのだから。
あの手の薬は、分量を間違えると人として戻れなくなる。
薬師でもその道の玄人でもない董卓軍の兵たちが興味本位で使いたいだけ使えば、人は簡単に壊れると思う。
「いいこと、。絶対にひとりにはならないで。暗がりにも行かないで。お仕事はできるだけのんびりと・・・・・・そうだわ、皿洗いや盛付のお仕事がいいわ」
「ふむ、貂蝉の策が良かろうな。頼んだぞ」
心配性の主と姉だ、まるでこちらが道理を知らない子どものように扱ってくる。
宮中に行くことになったと文遠には伝えておこう。
ひょっとしたら壁越しではなく直に会えるかもしれない。
逆光で彼の顔が見えず声で判別するしかないが、きっとわかってくれるはずだ。
自分の髪は人と少々色味が違う。
さて、宮中で働く下女とはいったいどんな服を身に着けているのだろう。
は自室へ戻ると、とびきり地味で目立たない色合いの衣を手に取った。
煌びやかに着飾った美女たちが、次から次に贅を凝らした料理を広間に運び込む。
去ろうとする女の体を引き寄せ隣に侍らせ酌をさせるので、広間に留まる人は増えるばかりだ。
いつかも広間にやって来るのではないかと思うと、ハラハラして酒も食事も進まない。
張遼は現れる女を見ては胸を撫で下ろすことを繰り返していた。
全員に料理が行き渡り、ようやく彼女はその役目ではなかったと安堵する。
「実は私、今度の宮中の宴に参加することになったんです。文遠様にもお会いできるでしょうか」
先日の忠告をすべて忘れたのか、しゃあしゃあと言ってのけたには驚かされた。
何をするのかと問い詰めたが仔細はにも伝えられていないらしく、行くという答えしか得られなかった。
宴の間はずっと女を見比べていた。
一生のうちでも、今日ほど女を見定める日は二度と来ないと思う。
張遼は乱痴気騒ぎの様相を呈してきた広間を抜け出すと、行く当てもなく庭を散策し始めた。
宮中はすべて董卓軍だと認識しているが、賊徒はいつ忍び込んでくるかわからない。
兵たちが酒に酔い女と戯れている今が襲撃の好機だ。
冷えてきた夜風に晒され、ふうと息を吐く。
べぼんと聴いたこともない音色を弾き出したおそらくは楽器に、肩が跳ねる。
表に出れば断罪されても弁明できない不出来さだ。
張遼は耳を塞ぎたくなる気持ちを必死に抑え、音の発生源を探した。
本人に言わなければ音色は止まらない。
厨房の裏の岩に腰掛けている背中に、あっと叫ぶ。
見覚えがある、というよりも忘れたこともない金に輝く艶やかな髪。
月に照らされたそれは日中よりもさらに眩く、思わず感嘆の声が漏れる。
ぎゃん。
神秘的な雰囲気を破壊する音色に我に返る。
まさか、この音色の持ち主は。
「殿・・・?」
「はい。あら、お酒の追加ですか? それともお料理?」
「いや、違う・・・。殿で相違ないな?」
「はい、私はですが。ええと、あなたは・・・」
箏を手にしたまま振り返ったがゆるりと首を傾げる。
なぜわからないのかがわからない。
ほぼ毎日話をしているのに、話し相手を理解できないの思考が理解できない。
箏を抱えたままが立ち上がり、ゆっくりと近付いてくる。
ああ、もしかして!
ぱちんと手を合わせた瞬間にの手から大切であろう箏が落ち、張遼は慌てて箏を掴んだ。
地面に落として壊れれば確かに破壊の音色は聞こえなくなるだろうが、それは抜本的な解決には至らない。
「文遠様ですか? お会いできて嬉しいです」
「忘れられてしまったのではと思っていた」
「申し訳ありません。ブンを助けていただいた日は陽が眩しくてお顔がよく見えなかったんです。ふふ、今日も暗くてよく見えないのですが」
「なるほど、合点がいった。殿はここで何を?」
「それが、宮女の格好をしたつもりだったのですが少々みすぼらしかったらしく表にも裏にも出してもらえず、楽士としてもお勤めできず、暇を持て余しておりました」
「・・・確かに、それは下女よりも粗末であろうな。物入りなのか? 私で良ければいくらか」
「いえ、これはとっておきのボロのようなものです。こういうのがお好きな方もいらっしゃるので」
「そうか?」
「はい。ところで文遠様はなぜこんなところまで? お料理がお口に合いませんでしたか?」
何か作りましょうかとが仰ぎ見る。
腹は減っているが、ここに長居するのはお互いのために良くない気がする。
張遼はに箏を返すと、踵を返した。
文遠様と呼ばれる声に振り返りたくなるが、ここで彼女の腕を掴んでしまえば広間の兵たちと同じになってしまう。
「殿」
「はい」
「もう帰られても問題はないように思う。夜道も充分気を付けて戻られよ」
「わかりました。文遠様も宴を楽しまれて下さいね」
失礼致しますという声を最後に、人の気配が消える。
数分後再び振り返った張遼は、そこに誰もいないことを確認すると広間へと戻っていった。
Back Next
分岐に戻る