君の視界に入れない
湧くのは温泉だけにしてほしい。
今まで一度も舞い込んでくることがなかった縁談が、急に矢継ぎ早に届くようになった経緯が知りたい。
興味本位で家を聞いてみたけど、今まで私を望んでいる素振りなんてちっとも出していなかった人だ。
話したこともないと思う。
みんなして我慢ができるむっつりさんなんだろうか。
私ではなくて、諸葛亮様と仲良くなりたいだけとか?
でも私は諸葛亮様とは親戚でもなんでもないから、私を手に入れても出世は見込めないはずだ。
私自身には何の価値もない。
蜀で生き続けるなら、むしろ私とは距離を置いた方が賢明だとすら思う。
はあ、めんどくさ。
独り言を聞き咎めたのか、姜維殿が厳しい声で名前を呼ぶ。
返事をすることも面倒で黙ったままでいると、姜維殿の眉間に皺が寄る。
ああ、これはまた怒られる。
「殿、調子が優れないのか?」
「う〜ん、まあそんなとこ」
「どこか痛むのか?」
「そういうんじゃないけど、なんだかしんどくて」
「・・・失礼」
卓から身を乗り出した姜維殿が、私の顔に手を伸ばす。
真近に迫る大きな手に思わず目を閉じると、額にぺたりと手が当てられる。
熱はないようだがと、姜維殿がぶつぶつ呟いている。
怒らないのと尋ねると、姜維殿が不思議そうな顔で首を傾げる。
なぜと問い返され、私はううと言い淀んだ。
「いつもの姜維殿なら行儀が悪いとか返事がないとか、お小言言ってくるから」
「心外な。私は弱っている者を痛めつけたりはしない」
「別に弱ってはないんだけど」
「いつもより顔色が悪いし、言葉に覇気もない。・・・これほど弱っている殿を見るのは初めてだから心配している」
「あ、そうなんだ」
「何かあったのか? 私に話せることなら教えてくれないだろうか」
立ち上がった姜維殿が、私の隣まで歩み寄り腰を屈める。
私ってば、姜維殿がいつもの調子を崩すほどに弱々しい姿をしていたんだろうか。
諸葛亮様と月英様の前では空元気を振る舞えてただろうか。
何の関係もない姜維殿にまで心配させてしまって、大丈夫だよの一言すら言えそうにない。
姜維殿に話せる内容ではあるけど、話すのはちょっと違う気がする。
姜維殿に愚痴ったところで何かが変わるわけでもないし。
下手に愚痴って、蜀の安定を第一に掲げていそうな姜維殿に良いのではないかなんて背中を押されてしまったら目も当てられない。
諸葛亮様が四方に角が立たないようにお断りしてくれるらしいから、私はそれを待てばいいだけだ。
でも本心を言えばそれら行動自体が申し訳なくてたまらなくて、そんな労力を使わせてしまうなら一番高く買ってくれるところにさっさと行った方がマシではないかなと投げやりになりつつある。
諸葛亮様の神算鬼謀をもってしても、訳アリの特盛みたいな他人の子どもの縁談を円満に破談に持ち込むなんて難しいに決まっている。
理由を問われても何も言えないのだ。
ありがちな病弱設定も、私自ら意気揚々と建業に乗り込んだから使えない。
事実、任せて下さいと言われてからこの方、諸葛亮様たちからは何の進捗も聞けていない。
「・・・もう無理、やっぱ無理、諸葛亮様にお任せしちゃ駄目」
「殿?」
「だって私の話だもん、諸葛亮様が頭下げることないもん。絶対そう、そっちの方が良いに決まってる」
「殿」
「姜維殿、心配させちゃってごめんなさい。私、元気になってくる」
「待ってくれ殿。事情はわからないが軽挙は控えた方が良い、丞相が関わっているのなら尚更・・・!」
追い縋ろうとする姜維殿の両手をぎゅうと握る。
姜維殿の手が熱くなる。
人の体温ではなくて、自分の心配をした方が良さそうな発熱具合だ。
動きが止まった姜維殿を置き去りにして、諸葛亮様から教えてもらった縁談相手を思い出す。
無理ですと誠心誠意伝えればきっと相手もわかってくれる。
女の子は私だけではない。
私よりも肉付きのいい子はたくさんいるし、私より可愛い子もたくさんいる。
家柄に申し分ない子もたくさんいる。
私に固執する必要はどこにもない。
ようやく我に返ったらしい姜維殿の私を呼ぶ声が微かに聞こえた。
どういうことですかなと苦み走った顔で尋ねられ、ゆっくりと羽扇を揺らす。
顔は平常心そのものを演出しているが、心の中は大いに荒れている。
が、縁談は断ると直接挨拶に来たらしい。
の言葉そのままの意味ですよと率直に伝えたいが、そうはいかないのが現実だ。
遠慮がちなだ。
おそらくは、こちらに断らせる手間をかけさせたくなくて自ら動いたのだろう。
おかげさまで、相手はメンツを潰されたと大層ご立腹だ。
面倒臭い。
の口癖が口から飛び出そうになり、口元を緩める。
家族で言葉が似てくるなんて、まるで親子ではないか。
そう、は目に入れても鼻に入れても、体中の穴という穴どこに入れても痛くない可愛い可愛い娘同然の子だ。
の誠意溢れる辞退の申し出に気分を害するような舅が待つ家に輿入れさせられようか。
は見る目がある。
諸葛亮は目を伏せると、遅きに失しましたがと前置きし口を開いた。
「先だってが伝えたとおりとなります。此度は御縁がなかったとご理解いただきたく」
「貴殿は娘に甘いのではないか? これは浮ついた色恋の話ではなく、家と家との繋がりを意味する政でもあるのですぞ」
「は私の娘ではありませんが・・・」
「知っておるわ。そうだというのに随分と気位の高い娘よ、よもや帝に取り入ろうとしているのではないか!?」
なぜ、この男は敵ではないのだろう。
敵軍なら何の躊躇いもなく消し炭にしているのに、同胞だから黙って聞くより他にない。
曲がりなりにも礼儀を尽くしてを妻に迎えようとした家の、これが本音か。
それにしてもの行動の速さには驚かされる。
まるで上庸攻略を一瞬で成し遂げたあの男のようだなと、の迅速果断な動きには賞賛を禁じ得ない。
まさかとは思うが、建業にまで赴いてはいないだろうか。
もそこまで猪突ではないはずだ。
呉との交渉こそこちらに任せてほしい。
そう大言壮語したものの、有効な打つ手がなく今日まで何の答えも出せていないのが現状だが。
「はまだどこにも嫁ぐつもりはありません。ご安心ください」
「まったく、見目が良くてもあのような無礼者では適わぬ。こちらこそ願い下げだ、なかったことにしていただく」
はいったいどのような断り方をしたのだろう。
先にを望んだのは先方の家か息子かどちらかだろうに、手のひらを返すような言い方をされて不憫でならない。
諸葛亮は大股で邸を去っていった大臣の背を見送った。
今の話は本当ですか、丞相。
入れ違いに現れた姜維の真っ青な顔に、諸葛亮はふいと顔を逸らした。
「貴様のような男に娘をやれるか・・・と言いそびれました」「孔明様」