暗愚は凡愚に気付かせない




 宮殿に通うことはほとんどない。
私がいつも通っているのは諸葛亮様がお勤めしている丞相府で、陛下や星彩殿がおわす成都の中心に自発的に向かうことはない。
南征や北伐が始まってからは、お留守番ばかりでは寂しいだろうと宮中に招かれることが増えた。
今日は、私は私の意思で陛下に会いに行く。
私はおろか、諸葛亮様ですら手に負えなくなった個人的な問題を陛下に助けてもらうためだ。
果たして陛下は会ってくれるだろうか。
今日に限って忙しいなんて言われたら、私はもう諦めてしまうと思う。



「おお、か。私に会いに来てくれたのか?」
「陛下、なんでここに? 宮殿の豪華な玉座に座ってるんじゃ・・・」
「星彩も出陣し、ゆっくりできそうだったので散歩をしていた。に会えるとは私も運が良い」
「危ないですよ! ほんとにおひとりなんですか!?」
「なぁに、私でもは守れるぞ?」
「そうじゃなくて、私は陛下を守れないです!」



 のんびりしすぎている陛下を宥めすかし、どうにか宮殿にお戻りいただく。
宮中は忽然と姿を消してしまった皇帝捜索で騒然としていて、たまたま道端で出会っただけの私はものすごく感謝されてしまった。
はすごいのだぞと陛下も調子良く言うものだから、百官こぞって私に頭を下げる始末だ。
居心地が悪すぎる。
来たくて来たはずなのに、帰りたくなってきた。



、私に話があったのではないか?」
「どうしてわかるんですか?」
「会いに来てくれないが来たのだ。よほど私に伝えたいことがあるのだろう?」
「そのとおりです」
「ふむ、では私の部屋においで」
「「陛下!?」」



 今度は私だけではなく、傍に控えていた侍従も素っ頓狂な声を上げる。
呼ばれて光栄なのか、警戒すべきなのか、覚悟した方がいいのか心構えがわからない。
姜維殿に呼ばれたなら即答で拒絶しているけど、陛下相手にそれは不敬の極みだ。
趙雲様だって陛下を串刺しにはしないはずだ。
固まってしまった私を見て自らの不用意な発言に気付いたのか、陛下がああと声を上げる。
何もしないからおいでと再度言われれば、頷くことしかできない。
この国で、皇帝の私室に足を踏み入れた女人はどれだけいるのだろう。
星彩殿は入ったことあるのかな。
連れてこられたものの、居場所を見つけられず立ち止まっていた私を陛下が豪華な卓へ導く。
2人きりだなと微笑まれ、笑顔が固まる。
は可愛いなあと続けざまに言われ、いよいよ訳がわからなくなる。
何もしないって、何をしないってこと?




「あの、えっと」
「いつになったら話に来てくれるのかと、ずっと待っていた。あまりに来ないものだから、私の方から訪ねようかとしていた」
「あ、だからさっきお外にいたんですね。呼んで下されば良かったのに」
「諸葛亮も奥方もも、ちっとも私を頼ってくれない。寂しかったぞ」
「ご存知だったんですね」
「元はといえば孫権殿からの親書に書かれていたものだからな。私が諸葛亮に教えてあげた」
「そっちか〜」



 諸葛亮様宛に内々に届いた縁談と思っていたけど、思いっきり公式文書だったとは。
断れる気がまったくしない。
陛下のこの感じの口ぶりで告げられた時、諸葛亮様はどんな顔で聞いてたんだろう。
寝耳に水どころか、全身に氷水を浴びせられた気分だったかもしれない。
よくもここまで私に黙っていられたものだ。
きっと孫権殿は色よい返事を今か今かと待っている。
断ってしまって国交に亀裂が入らないのか、私はそれだけが気になって仕方がない。
私を育ててくれた大好きな国が、私のせいで敵を増やすなんて絶対にあってはならない。
私は蜀のために生きると心に決めている。
私の気持ちより国が大切だ。



は行ってしまうのか?」
「断ったらどうなりますか?」
「この話はなかったことになり、元通りの関係だ」
「本当に? 揉めたりしませんか?」
「すべて知れた時の方がよほど揉めると思うぞ」
「それはそうだと思いますけど」
の正体が知れても、孫呉の人間は誰も悲しまない。ひょっとしたらの夫は悲しんでくれるかも知れないが、それでも彼だけだ。を見送っただけでも私たちは充分に辛く寂しい思いをするのに、遠い異郷の地でのの痛ましい話を聞いてしまえば私たちはどんなに悲しいか」
「劉禅様・・・」
「皆、道理のわかる賢い大人だから言わないだけなのだ。私は暗愚だからいくらでも言える。行かないでくれ、行ってはいけない。ずっと私たちの傍にいておくれ」



 いつも柔和なお顔つきの陛下の、笑顔のない真剣な表情を初めて見た。
本当に私を手放すつもりがないのか、いつの間にか力強く両手を握られている。
傷跡が少ない手は、勝手に想像していたよりも大きくて分厚い。
私の何の変哲もない手を、まるで宝物のように扱ってくれる。
私の存在が危険なのは蜀でも変わらない。
諸葛亮様や月英様、陛下と星彩殿が大切に守ってくれているから今の私がいる。
私にとっての宝物は彼らだ。



「孫権殿には私から返書をしたためておこう」
「何て書くんですか?」
「内緒だ」



 ふふふと悪戯っぽく笑った陛下が、私の手を引いたまま私室の外まで見送る。
宮中はよほど暇なのか、そわそわとした様子の侍従たちにひらひらと手を振り何もなかったと見せつける。
陛下はいったいどんな手を打つんだろう。
何の予想もできないのに、何の心配もない。
貴重な体験をした宮殿を背にして、あっと声を上げる。
趙雲様の容体を伝えるのを忘れていた。
言伝のためにまた陛下に会いに行かなくちゃ。
近くて遠かった宮殿に行く用件がまたできて、なんだか嬉しくなった。






















 色よい返事と重臣の美しき縁者が手に入るはずと、喜び勇んで成都の地を訪ねていた孫呉の使者の顔が曇る。
まだ間に合えば良いがと思案顔でいた主君の懸念は当たっていたようで、かの女人はとうに誰かの特別だったらしい。



「・・・今、なんと?」
は私の傍に置きたいのだ。孫権殿にはよろしく伝えておいてほしい」
「傍とはその、つまり」
「皆まで言わねばわからぬのか?」



 そなたは好き者だなと言われ、ぱっと顔が赤くなる。
子どもではないのだから、彼が言わんとしていることはすべて理解できている。
ただ、これを伝えて果たして主が納得するかどうか。
酒量が増える前に伝えれば持ち堪えられるか。
居並ぶ諸官の様子を見るに、劉禅は嘘は言っていないようだ。
茫洋としており時として暗愚とも揶揄される蜀帝も、才色兼備な女人を見出す目は持っていたらしい。
使者としての威厳と礼儀を失することなく辞していった男の退室を見届けると、劉禅はふうと息を吐いた。



「趙雲に串刺しにされなければ良いのだが」
「恐れながら、趙雲殿もむやみやたらと打擲していたわけではないと伺っております」
「それでも、たった1人だけだ。そうだ、私が趙雲の後を継ごう。近所に住む皇帝、楽しそうだ」



どうせ私は2人目にはなれやしないのだから。
独り言は、誰の耳にも入らないまま床に落ちた。




私たち、とは聞こえが良いな



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