疑惑だらけの体を抱いて




 いつの間に雨が降っていたのだろうか。
の背中が濡れているように見える。
姜維は、人気の少ない路地をとぼとぼと歩いているの横顔を視界に捉え首を傾げた。
同じ成都にいるのだから、の頭上にだけ雨が降るわけがない。
誤って水を浴びたか、それとも何かがあったのか。
何にせよ、路地を独りで歩いていい理由にはならない。
成都に詳しいと自負しているが選んで歩いている道なので実のところはただの近道かもしれないが、見過ごしてはおけない。
姜維は小走りでに駆け寄ると背後から名前を呼んだ。
の首がぐらりと不規則に揺れ、危ない危ないとが呟く。
見間違いではなく、確かに背中が濡れている。
着心地が悪いから首も落ち着かないのだろう。



殿、その服は。なぜこんな場所に」
「これ? 綺麗な色でしょ、姜維殿こういうの好き?」
「そうではなくて背中が濡れている。何かあったのか?」
「別にないけど、姜維殿こそこんなとこで何してるの? 巡察?」
「今は私が質問している。そんな格好で歩くのは感心しない、何かあったらどうする」
「だから何もないけど・・・」



 笑顔でこそ応えてくれるが、の言葉はいつもより素っ気ない。
探られたくない話題があるようで、こちらの質問に対して明確な返答をしない。
やはりに何かあったのだ。
答えにくい事情があっては濡れていて、誰にも見つかりたくなかったからあえて路地を歩いていたのだ。
は成都で多くの人々に愛されている。
彼女の兄や姉代わりを豪語する腕っぷしの強い将たちはごまんといるうえに、諸葛亮が溺愛している。
の身に不幸が降り注げば、本人の意思とは別に彼らは黙ってはいない。
も自らの置かれた甘い環境は自覚している。
だから彼らに見つからないようにしたのだろう。
残念ながら、麒麟児はの思惑などお見通しだ。



殿、私と一緒に来てくれ」
「え~でも私、邸に帰ってる途中で」
「その格好で帰れば丞相も月英殿も心配するが?」
「諸葛亮様は今はお邸にいないよ。ご子息と一緒にいる・・・・・・あ」
「・・・なるほど」



 がぱっと口を押さえ、こちらを仰ぎ見る。
聞こえちゃったと尋ねられ、大きく頷く。
誰にも見つかりたくない理由がよくわかった。
本人に複雑な家庭事情に立ち入るつもりはなくとも、彼女の存在を快く思わない人物と出くわしてしまったのだろう。
実子でもなく当然継嗣でもなく、どこの馬の骨ともわからないが本邸に住んでいる。
面白くないに決まっている。
がいなければ夫は嫡男をもっと長い時間可愛がり慈しんでくれていると、子の母が何の落ち度もないを逆恨みしていてもおかしくない。
姜維は困り顔のを見つめた。
暖かい季節だが、濡れた服に熱を奪われているのかがくしゃみする。
幸いここには誰もおらず、自邸からも遠くはない。
この好機、逃すわけにはいかない。
姜維はの腰を引き寄せた。
ひゃぁん、とが聞いたこともない声を上げ眉がぴくりと動く。
も甘い声が出せるのだなと驚くが、顔に出すことなく横抱きにする。
やだやだと子どものようにごねて暴れるの頭をぽんぽんと撫でると、の動きがぴたりと止まる。
ぎゅうと襟を握り締められ、姜維は黙ってを見下ろした。



「・・・で」
「ん?」
「諸葛亮様には絶対に言わないで。月英様にも」
「承知した。代わりにと言っては何だが、私からもひとつ頼みが」
「うん」
「今から殿は私の邸に行くのだが、これは絶対に他の誰にも他言しないように」
「姜維殿の邸に行くの!? なんで!? そこは普通こっそり諸葛亮様のお邸の裏口とかだよね!?」
「なぜって、着替えをする必要があるだろうに」
「姜維殿が女物の替え持ってるってどういうこと!? え、なんかやだ! その人に申し訳ないから無理!」
「急に暴れたらあぶな・・・うわっ」



 殊勝な態度をかなぐり捨てたが再びじたばたと暴れる。
可愛らしく握り締められていたはずだったのに、いつの間にやら胸ぐらを掴まれている状態に変貌している。
どんと胸を突き押され、堪らず身体がよろめく。
どさっ、いたっきゃー!
横抱きの拘束を突破したが地面に落下し、悲鳴を上げる。
冷水を浴びせられた嫌がらせが、水溜まりで転んで泥まみれになるうっかりへ上書きされた。




殿は殿に申し訳なく思うのか?



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